加藤清正(1562〜1611)は、江戸時代でも人気者だったし、明治から第2次世界大戦の敗戦(1945年)までは、とても人気があった。しかし、最近の若者は名前すら知らない。朝鮮出兵で侵略者の烙印が押されたこと、及び、豊臣家への忠義一筋の頑固な生き方が流行らなくなったことによるのだろう。 


 ただし、熊本県では誰もが知っている人気者である。 


 それは、清正が熊本県の大小の河川ことごとくに治水事業を実施したからである。しかも、県民が「清正公様の築いたのは、どげんこつがあっても、ビクともせんとですたい」と言うように、創意工夫を重ねたすばらしい治水をなした。 


 思うに、清正をキャンペーンするならば、猛烈武将の側面よりも、「自然力を生かした治水をなした偉人」をアピールしたほうが、環境の世紀にマッチするのではないか。いつまでも虎退治じゃ、清正は忘却の彼方へ消え去るのみで、気の毒だ。 


 自然力を生かした治水事業と新しい築城法と合わせ考えると、清正は「土建の神様」である。戦後の高度成長期の日本は「土建国家」と揶揄され、3.11後、再び「土建国家」復活の雲行きだが、ぜひとも土建関係者は熊本の清正神社へ参拝してほしい。そうすれば、新しい土建の姿が脳裏に浮かぶだろう。 


 さて、加藤清正は幼名を夜叉丸、別名を虎之助という。秀吉の遠縁にあたり、近習として秀吉に仕えて転戦する。とくに、柴田勝家との賤ヶ岳(しずがだけ)の戦い(1583年)では「七本槍」のひとりに数えられた。 


 1588年、秀吉は肥後(熊本県)を南北に分け、北を加藤清正へ、南を小西行長に与えた。このときから、2人は完全なライバルになった。その年の6月、「加藤家37将」を引きつれ熊本へ入城。そのとき、熊本は大洪水の渦中にあった。水、水、水の熊本平野を眺めながら、治水の必要性を深く思ったに違いない。 


 1592年、秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)となる。第1軍の小西行長と第2軍の清正との漢城(現ソウル)への先登競争。ちなみに、第3軍は黒田官兵衛の子、黒田長政(幼名・松寿丸)である。清正は漢城から北北西に進軍し咸鏡道(朝鮮半島の最北西)の会寧で朝鮮王朝の2王子を捕え、さらに豆満江(朝鮮最北の国境の川)を越えてオランカイ(満州のどこか)まで到達する。何をしにオランカイまで行ったのかは不明。


 戦闘が和平交渉で一服中、朝鮮滞在の諸将の間で虎退治が流行するが、後世有名になったのが、清正の片鎌槍での虎狩り。しかし、真実は鉄砲で仕留めたらしい。だから、くどいようだが、虎退治とはサヨナラしよう。なお、名古屋市にある徳川美術館には、清正が仕留めたとされる虎の頭蓋骨が2つ陳列されてある。


 1597年、再度の朝鮮出兵(慶長の役)となる。このとくは、蔚山城の籠城で苦戦を強いられた。翌年、秀吉の死亡で日本軍は撤兵。


 文禄・慶長の役では、諸将は捕虜として朝鮮人を強制連行した。1607年に国交再開交渉が始まり、朝鮮側から捕虜召喚が議題となり、徳川秀忠(第2代将軍)は捕虜召喚の命を出した。このときは約1400人が召喚された。その後も捕虜召喚交渉がなされたが、帰国できたのは一部だったようだ。


 捕虜の境遇については、特別優秀な人物(熊本市本妙寺の第3代住職・日遙上人、佐賀儒学の洪浩然)以外は、よくわからない。大半が故郷へ帰れなくなってしまったことは確かである。


 加藤清正も陶工、石工、瓦工、紙すき工など大勢連れ帰った。彼らは、熊本城近くの現在の熊本市蔚山町に住んだ。そんな因縁ながら、400年の恩讐を越えて、熊本市は韓国の蔚山市と友好協力都市を締結した(2010年)。


 清正は朝鮮滞在中、朝鮮の築城法、とりわけ石垣構築法を熱心に研究したのではなかろうか。当時の日本の石垣構築法は、自然石をそのまま積み上げる「野面(のづら)積み」だった。排水性に優れ頑丈だったが、敵に登られやすく、また、あまり美的ではなかった。


 戦国武将は合戦に勝つためには、あらゆる技術を積極果敢に導入した。鉄砲は伝来されるや、またたく間に普及し、世界最大の保有数となったくらいだ。清正は朝鮮半島へ上陸した際、石工を同行させ、倭城(日本式城)を建設した。その際、清正や石工達は朝鮮式城を目撃するや、その長所短所を素早く会得したようだ。清正の土建技術者としての才能は、新しい石垣構築法は、築城だけでなく川普請にも役立つと判断した。 


 帰国後、清正はすぐさま朝鮮で会得した石垣法を活用した治水事業を始めるが、1600年に関ヶ原の合戦が勃発する。東軍(徳川側)につき、一挙に西軍の小西領を占領して肥後(熊本県)の大大名となる。


 その後の清正は、徳川・豊臣の親善和平のため、秀頼と千姫の婚姻を図り、その努力は1603年、家康が征夷大将軍に任じられた年に実を結んだ。


 清正は熊本城入城直後より治水を開始しているが、本格的土建ラッシュは関ヶ原以後である。河川の治水だけでなく、新田開発、海岸の防潮工事、植林、築城……。肥後には、「指揮所跡」「床几の松」「馬場楠」「帳塚山」など、清正が直接現場を指揮した痕跡が多くあり、まさに東奔西走する土建会社社長兼現場監督の姿が窺い知れる。 


 その成果は、約21万石の増収となり、人々は「加藤神社」「清正公堂」を各地に設けて、彼を「神」とした。その「神」とは武勇・忠義の性格よりも、「治水・土建の神」である。 


 肥後には、4つの大きな河川、すなわち、北から菊池川、白川(熊本市を流れる)、緑川、球磨川が流れている。清正は、いずれの河川でも「自然の性質を上手に利用した治水」を創意工夫したり、朝鮮で会得した新技術を活用して事業をなした。作業員は農閑期の農民で給金を与えた。現代風に言えば公共事業で、肥後の高度成長時代となった。目立った事業をいくつか述べてみよう。 


➀轡塘(くつわども)……塘とは土手・堤の意味。川に接する堤防の一部が切断されていて、そこを大きく囲むように離れた田畑の中に巨大U字型の堤を造る。洪水時には遊水地となり、水位低下とともに、水が引く。河川の合流部、湾曲部に設けた。 


②乗越堤(のりこしてい)……「溢流堤」(いつりゅうてい)とも「越流堤」(えつりゅうてい)とも言う。洪水時、堤防が大決壊しないように、予め堤防の特定部を低くしておく。溢れた水の勢いを減少させるため水害防備林として、竹や松を植林する。中国では古代より行われていたが、日本では清正が最初で、欧州よりも早かった。 


 いくら頑丈な堤防を築いても、自然の力は人の力を凌駕し、堤防は必ず決壊する。「轡塘」と同じく「洪水あれども水害なし」という「上手な氾濫」技術である。 


③二重石垣……水勢の激しい所に設置する。前面の石垣が決壊しても、背後の石垣が食い止める。前面の石垣の石は崩れると、背後の石垣の根本を固める捨石になり、背後の石垣を補強するのである。 


 背後の石垣は目に見えないので、土地の人でもすっかり忘れていたが、200年後の洪水時に、忽然と背後の石垣が出現し水害を食い止めた。これなど、まさに「神業」である。 


④蛇行型の川……緑川を、わざと曲りくねった川にした。距離が長くなれば、潮は上流まで上がらず、塩害を防いだ。 


⑤鼻ぐり……土砂の堆積を防止するため、小トンネルを連続的に設ける。そのため、水が攪拌され、土砂は自然に下流に流れる。 


 その他、井出(用水)、堰、井樋(いび、水門)、塘、石塘、石刎(いしばね、水刎とも言い水流を調整する)、殻堤(砂防ダム)、灌漑池……など、各地にマッチした治水工事をなした。 


 清正は河川の堀変えも4河川で実施している。とくに、白川関係は、熊本城の掘、氾濫防止、新田獲得、舟運確保の一石四鳥の工事で「すばらしい」の一言である。 


 手まり歌に、「あんたがたどこさ、肥後さ、肥後どこさ、熊本さ、熊本どこさ、船場さ」とあるが、それまで狸がいた土地が「船場」、すなわち船着場となり、九州最大の活況をみせるようになった。荷物は船から馬に積み替えるので、馬を洗う。そこで「洗馬」とも書く。現在の熊本市の「洗馬橋」には、立派な狸の欄干がある。 


 再度ながら、築城について。熊本の舟運を確保してから、熊本城の築城が開始された。信長の安土城、秀吉の大阪城は、ともに自然石の「野面積み」だった。清正は朝鮮での倭城建設で熟達した築城法によって「武者返し」(清正流石組)がある湾曲のある難攻不落な熊本城を完成させた。それは、300年後の西南の役に、熊本城の官軍が西郷軍の猛攻に耐え抜いたことで証明された。西郷は「おいどんは、清正公に負けたとでごわす」と言わしめた。 


 家康は諸大名の財力を殺ぐために、次々に手伝い普請を命じた。清正は江戸城に続いて、1610年、名古屋城天守閣の一手普請をつとめた。その結果が「尾張名古屋は城でもつ」となった。 


 1611年、家康が京都二条城に入った際、徳川・豊臣の和平のため淀君を説得して、秀頼を上洛させ家康との会見を成功させる。このシーンは、お芝居「二条城の清正」や、毒饅頭の話で有名だ。毒饅頭だったのか、食中毒だったのか、とにかく会見の3ヵ月後、清正は亡くなった。


 清正の治水事業の大半は、残念ながら明治以後の近代治水法によって壊されてしまった。しかし、時代は、「氾濫は必ずある」「自然は近代科学で封じ込められない」「自然力を利用する」と再認識するようになってきた。


 なお、加藤清正には土建の才能がある重臣が2人いた。飯田直景(なおかげ、通称・覚兵衛)と森本一久(通称・儀太夫)である。社長ひとりが優秀だけでは、そう事は上手くいかないものだ。

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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。