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地震、津波、火災の三重苦を乗り切った気仙沼市立病院で、司令塔となった事務室は、震災後10日経ってもまだ忙しそうだ。写真左端が加賀秀和事務部長。

 

「自家発電はあとどれくらい持つんだ?」。 宮城県の気仙沼市立病院総務課の村上則行課長は、電気主任技術者で新病院建設準備室の横山公明室長に尋ねた。

 

「第1発電機は重油が満杯なので、あと100時間は持つが、第2は16時間くらいしか持たない」

 

「16時間? 透析が明日の朝までで止まってしまうということか」


 大震災発生直後から停電に見舞われた病院は、自動的に自家発電機に切り替わっていた。だが、透析患者らが使っている第2発電機は、暖房や給湯などに使うボイラーと共用のため、重油が消費されている。ちょうど震災が起きた日にタンクローリー車が補充するはずだった。

 

 村上課長は頭を抱えた。こんな非常時にどうやって重油を手配したらいいんだ。たまたま宮城県の災害対策本部が、災害用電話に被災状況を尋ねてきた。村上課長はすぐに要請した。「重油を大至急お願いします。このままでは透析が止まり、人工呼吸器の患者も大変なことになる」。だが、いくら早くても16時間以内に間に合うはずがない。「重油を探せ」。号令をかけると同時に、暖房と給湯を停止させた。少しでも節電するためだ。

 

 翌日、総務係の藤田直人氏が、市内で石油製品会社のタンクローリーを見つけた。850リットルしかないが、ないよりましだ。すぐに病院に誘導した。午後2時にタンクに注入し、とりあえず一息ついた。しかし、県に依頼した重油はまだ届かない。一日に必要な量は2500〜3000リットルだ。このままでは1日も持たない。

 

 ちょうど同じ頃、職員が病院のすぐ近くの道路に別のタンクローリーを見つけた。前日に病院に重油を運ぶ予定だった車だ。運転手はいないがドアはロックされていた。津波で流されてきたのか、あるいはここに駐車して運転手だけが津波から避難したのか、わからない。村上課長は市の対策本部と相談し、その重油を抜き取ることを決断した。8000リットルの重油がタンクに収まったのは、深夜になってからだった。これで数日は凌げる。県に手配した重油も間もなく到着した。これだけあれば大丈夫だろう。村上課長はホッと胸を撫で下ろした。

 

 だが、15日になって新たな問題が起きた。発電機は通常72時間、つまり3日ほどが限界の非常用の機械だ。しかも第2発電機は、24年前に取り付けた古いものだ。15日未明からオーバーヒート気味で、何度も止まってしまう。横山室長は深夜に、第2発電機で賄われている病棟の患者を移動させるようお願いし、発電機を少し休ませ、再び稼働させた。だが、それもすぐに止まってしまう。万事休した。

 

 そのとき、東北電力から間もなく電気が通るとの連絡があった。15日午後1時。電気が通った。病院の窮地を救ったのは、ふだんは裏方の事務職員らの機転と決断だった。