東大病院放射線治療部門・緩和ケア診療部
准教授
中川 恵一氏


 全世界に衝撃を与えた福島第一原子力発電所事故。死者こそ出ていないものの、炉心溶融が起き、大量の放射性物質が大気中に放出され、20万人以上の住民が避難。未だに事態収束のメドが立っていない。そんななか、多くの国民が心配しているのが「大量に漏れた放射性物質による被ばくと健康被害の可能性」だろう。放射線被ばくの何が恐ろしいのか? その道のプロである東大病院放射線治療部門・緩和ケア診療部・中川恵一准教授の講演を聴いた。演題は「放射能はどれだけ人体に有害か?——原子力発電所事故におけるリスクコミュニケーションの考察」(製薬協メディアフォーラム)。

 

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今回の事故において何が問題なのか? 何が怖いのか? といえば「放射線被ばくによる発がんリスクの上昇」です。

 

 放射線の恐ろしさを巡るデマには、「被ばくにより鼻血が出た」「髪の毛が抜けた」などというものがある。もちろん大量の放射線を被ばくすれば、鼻血も出るし髪の毛も抜ける。しかし、このような症状が出るほどに高濃度の放射線量が観測されるエリアは、「福島第一原子力発電所の建屋付近」にしかない。避難エリア外にいる一般市民がこのような急性放射線障害を発症することはあり得ないといっていい。つまり、今回の事故で一般市民が心配すべき放射線被ばくのリスクは、「急性放射線障害以外のリスク=発がんリスクの上昇」に限られるということだ。

 

 がんはどのようにして起きるのか? 端的にいえば細胞のコピーミスにより起きます。人間には60兆の細胞があり、毎日6000億の細胞が置き換わります。これだけの数の細胞分裂が起きると、一定の確率でコピーミスが発生します。つまり、誰であっても毎日5000くらいのコピーミス=がん細胞を生み出しているのです。しかし、多くの場合は全く問題になりません。毎日生み出される5000個のがん細胞は、その都度、免疫細胞によって退治されるからです。

 

 さて、こうした細胞のコピーミスは年齢を経るとともに増えてきます。生活習慣が悪ければ、当然、コピーミスも多くなります。また、免疫機能も徐々に弱くなってきます。結果、コピーミスが積み重なってしまうことで、がんが発症します。

 

 がんの原因について見ると、1/3がタバコ、1/3がお酒などのタバコ以外の生活習慣、残り1/3が「運」です。タバコを吸わず、お酒も飲まず、塩分を控えて野菜、果物を積極的に食べ、適度に運動するような人でも、「運」が悪ければがんを発症します。

 

 つまり、がんは確率の病気というのとなのだろう。ロシアンルーレットに喩えるなら、「ヘビースモーカーは6発入りのリボルバーに3発の弾丸を入れて引き金を引き、聖人君子は1発の弾丸を入れて引き金を引く」ということなのだろう。個々人の結果を見れば、「ヘビースモーカーでも天寿を全うする」というケースもあるのだろうが、100人、1000人という集団でみれば、圧倒的に聖人君子の生存率が高くなるということだ。

 

 放射線による被ばくが発がんリスクを高める理由は、端的に言うと「放射線がDNAを切断し、細胞のコピーミスを誘発する」ためです。放射線によって切断されたDNAは、修復酵素により治癒します。実際、日本人は平均で毎年1.5mSv被ばくしていますし、ブラジルのガラパリでは毎年10mSv被ばくしていますが、健康被害や発がんリスクの上昇は一切報告されていません。この程度の被ばく量であればDNAの修復も間に合い、細胞のコピーミスも大量に発生することはありません。

 

 しかし、大量の放射線を一気に浴びてしまうと話は変わってきます。例えば20mSvの放射線を一瞬に被ばくするのと、年間通してじわじわと被ばくするのでは、話は全く違います。大量の放射線を浴びるということは、同時多発的にDNAが切断されるということです。つまり、修復酵素によるDNAの治癒は間に合わなくなるということで、結果、切断されたDNAが残り、細胞のコピーミスが大量に発生する可能性があります。一方、同じ20mSvでも1年掛けて少しずつ浴びるのであれば、その都度、切断されたDNAが治癒されるので、一瞬で浴びるケースに比べればリスクは遥かに小さいといえます。

 

 この“一瞬の被ばく”は“じわじわの被ばく”することに比べて2〜10倍リスクが高いと換算するという(ICRC基準)。例えば一瞬で20mSv被ばくするケースは、最大で年間200mSv被ばくしたのと同じリスクがあり得るということだ。

 

 放射線被ばくによる発がんリスクの上昇は、広島・長崎の原爆被害者にも見られたとおりですが、国内外の様々な研究結果から言えることは、「年間100mSv以下の被ばくでは、発がんリスクの上昇は見られない」ということです。100mSvの被ばくにより発がんリスクは最大で0.5%増えると考えられていますが、この程度のリスク上昇は生活習慣の悪化などに埋もれてしまうほど小さなものです。

 

 喫煙は年間2000mSv以上被ばくするのと同じくらい発がんリスクを上昇させますし、肥満や運動不足なども200〜500mSv被ばくするのと同じ発がんリスク要因です。年間100mSv以下の被ばくは、こうした生活習慣の悪化に埋もれてしまうほどわずかなリスク要因といえるでしょう。

 

 福島原発の事故で漏れた放射線物質の99%は、3月15日の爆発とドライベントに起因するものだ。現在は、ここで漏れた放射線物質が飛散し、雨で地面に染み込み、地表から出てくる放射線(ガンマ線)が問題視されている。逆に言えば、現時点では放射線物質が大量に飛散していないということであり、過剰に放射線を怖がることは百害あって一利なのだろう。

 

 一方で、日本はがん大国で、2人に1人ががんになり、3人に1人はがんにより死亡している。欧米ではがんによる死亡者数は年を追うごとに減っていますが、日本だけは増え続けているが、その最大の原因は「がん検診の受診率の低さ」にある。がん検診受診率について、例えばアメリカ、イギリスでは7〜8割——乳がんではアメリカ73%、イギリス71%。子宮頸がんではアメリカ84%、イギリス79%——に達しているが、日本では25%に止まっている。

 

 現在、文部科学省が提示した児童に対する年間被ばく許容量(年間20mSv以下)を巡って市民団体などが抗議しているが、科学的な観点から見れば、学校教育の場で放射線に対して過剰に怖がることよりも、「学校内の全面禁煙」や「積極的ながん検診の受診」「これを促すためのがん教育の推進」の方が、長期的に見て遥かに有効といえそうだ。(有)