東日本大震災から半年。地震は、大津波、原発事故を引き起こし、東北を中心に大きな被害をもたらしました。震災医療に関わった人々がどう戦ったのか。地震直後から現地で取材を続ける、医療ジャーナリスト、ノンフィクション作家の辰濃哲郎氏が講演した。演題は「災害時における医療従事者の役割〜東日本大震災から学ぶ〜」(MRコンシェルジュ記念講演より)。

 

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原発事故の中で

 

 

 福島県南相馬市にある大町病院でのことを話します。地震直後のころ、ナースステーションのテレビには原発からモクモクと煙を上げている様子が放映されていました。放射性物質が来ているかもしれない。放射線を浴びているかもしれない。そんな状況で看護師は仕事をしていました。


 15日になって、さらに爆発が起きる。看護師の動揺を抑えるために院長は看護師を集めて、こう言った。「残って欲しい。けれども強制的に仕事をしてくれとは言えない」と。90人いた看護師で残ったのは17人。これは非難した看護師を責めているわけではないです。子供がいたら、家族を避難させるというのは、親として当然の役割です。でも、全員がそうしたら、入院患者はそのまま放置されてしまう。そういうジレンマを抱えながら、病院はどうしたのか。

 

 残った看護師が何日も徹夜をする。50床の病床を24時間、一人で看たり、30床を72時間ずっと看護したりした。そんな日が続きます。そんなとき看護部長が仮眠をしていると一人の看護師長がドアを叩きました。「消防署に助けを求めてください」。その頃、消防署も患者を転院先の病院に搬送していたんです。でも、なかなか受け入れてくれる病院がなかったんですね。消防署に頼めば転院先を探してくれるのではないかとその看護師は考えて看護部長に訴えたわけです。看護部長は、「今逃げたら、後悔するわよ」と諭すわけです。それがいいことなのかどうか。その看護部長にもわからなかった。けれど、あの時は、そう言って説得するしかなかったのだと、後に回想してくれました。

 

 そして17日、看護師10人が院長に直訴しました。「もう、私たちはできません」とね。さすがに院長も「やむを得ない」と応じました。でも、そのとき隣の部屋にいた事務長が出てきて言ったんです。「院長、それは違う。ちょっと待ってくれ」って。

 

 その事務長というのは、インターネットで福島県双葉町の病院のケースが問題になっていることを知っていたのです。事実かわからないけど、警察と自衛隊に誘導されて患者と病院の職員が避難したとき、患者がまだ病院に残っていたのですね。医師や職員が避難した後に、また病院に戻ろうとしたら警察官に制止された。その結果、何人か患者が死んだというのです。それをネットで見た事務長は、もし、この大町病院で、入院患者を放って看護師がいなくなったら非難は免れない。「数日中に入院患者の転院先を見つけるから、あと少しだけ、頑張ってくれ」と説得したそうです。

 

 18日、事務長に看護部長が呼ばれ、「搬送先が決まった」ということが伝えられます。看護部長は泣きました。それまで看護部長はみんなにきつく当たってきていました。自分が憎まれ役になっても、入院患者を救わないといけなかったわけです。

 

 被災地の病院では、美談ばかりでなく、良いのか悪いのかという判断がつかないような現場があったのです。

 

裏道を知る医薬品卸

 

 

 私の当初の目的は、テレビで放映された「薬が足りない」という院長の悲痛な叫びを検証することでした。でも、行ってみると薬がないんじゃないですね。病院に聞いてみても、不足だったのかというと、充足したとは言わないけど、不足したとも言えないという。雰囲気で薬もないと言ってしまっていることはあっても、「薬が足りない」という状況ではなかった。


 医薬品卸に取材してみました。気仙沼支店や石巻支店に行くと、薬を届けようとして、みんなが死にもの狂いで仕事をしていたのがわかる。医薬品卸バイタクネットの石巻支店では、石巻赤十字病院から人工透析の透析膜を明日の未明までに届けてくれという依頼があった。バイタルネットの人たちは、高速道路に乗ったり一般道を通ったりして、なんとか物流センターのある名取市までたどり着いた。でも、その物流センターに到着しても、業者から透析膜が届いていなかった。ようやく届いたのは、すでに午前2時の約束の時間。間に合わないけど、それを持って、石巻の病院に引き返して納入した。そういうのが何回も繰り返された。

 

 医薬品卸というのは、取材する前までは、本当な必要な職種なのかと思った時期もありました。でも、ああいう人たちを見て、こういうときに薬を届けるプロというプライドが感じられました。病院にどれだけ在庫があり、どれだけ患者が増えたら、どのくらいの薬が必要かというのを知り尽くしている。裏道も知り尽くしている人たちが、薬を納めるというのは、非常時には欠かせないことなのだと思い知らされました。


忘れないで

 

 

 最後に私が、一番、被災地で心に残る言葉があります。それは「自分たちが忘れ去られるのが一番恐い」とおっしゃっていたことです。何かしようとしても忘れなければ何かできる。月並みですが「忘れないこと」。私はペンを使って書きますが、それも忘れてしまっては書けない。忘れないことが、まずこれからの役割だと思いました。