生きている 今がしあわせ 夏木立


 詠み人知らずの句だが、上5と中7はそのままで、下5の季語を変えれば、いつの季節でも通用することになっている。たとえば、「秋の暮れ」、「冬木立」、「春の風」といった具合である。


 短歌に似たような遊びがある。後の7・7を「それにつけても金の欲しさよ」とするのである。「東海の小島の磯の白砂に」や「白玉の歯に沁みとおり秋の夜は」といった素晴らしい歌も、それにつけても金の欲しさよ、で茶化してしまう格好となる。


 越後の米どころ魚沼市に、自らを愚多楽和尚と呼ぶお坊さんがいる。なかなかのユーモアセンスをお持ちで、素晴らしい言葉遊びの達人である。「“口”が濁ると“愚痴”になる、“意志”が濁ると“意地”になる。“徳”が濁ると“毒”になる」とおっしゃっている。そこで筆者も考えた。「“勘”が濁ると“ガン”になる、“存在”が濁ると“ぞんざい”になる、“本能”が濁ると“煩悩”になる、“和尚”が濁ると“往生”だ」。


 禅宗のお寺の山門には「不許葷酒入山門」と刻まれた石碑が建てられている。「葷」というのは、ニラとかニンニクなど匂いのきつい野菜のことである。そうした野菜と酒は修行の妨げとなるから、お寺に持ちこんではならないというのである。愚多楽和尚のお寺の山門には、そんなお堅い文句はなくて、魚へんの字が四つ刻まれている。「鮭鮫鱈鯉」である。魚の名前のとおり読むと「さけさめたらこい」である。


 観光バスでそのお寺へ出かけた友人がいる。まだ昼間だというのに、お決まりの宴会が車内で開かれて、ほとんど酩酊して上機嫌。酒を飲んでしまっているので、虫へんの字を三つ書いて和尚に渡した。「蛇蛙蚊」。「じゃかえるか」である。後日、和尚はこれも石碑にした。魚へんの字が四つあるのに、虫へんが三つじゃ、バランスが悪いと、もう一字つけ加えた者がいる。「蝿」である。「じゃかえるか、はい」となる。和尚はこれも石碑にした。


 いうまいと 思えど今日の 暑さかな


 猛暑日が続くと、この句が口をついて出てくる。織田軍の猛攻を受け、僧堂に火をかけられた甲斐の快川和尚は「心頭滅却すれば、火もまた涼し」といったと伝えられているが、凡愚の身には到底悟りきれない境地である。


 江戸中期の俳人に上島鬼貫(おにつら)という人がいる。「夕涼み」と題した一句がある。


 なんとけふの 暑さは石の 塵を吹


 今日の暑さはひどいといいながら、腰掛けている石の塵を吹いている。もう一句、愉快な句がある。


 冬はまた 夏がましぢゃと いひにけり

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松井 寿一(まつい じゅいち)

 1936年東京都生まれ。早稲田大学文学部卒業。医療ジャーナリスト。イナホ代表取締役。薬業時報社(現じほう)の記者として国会、厚生省や製薬企業などを幅広く取材。同社編集局長を経て1988年に退社。翌年、イナホを設立し、フリーの医療ジャーナリストとして取材、講演などを行なうかたわら、TBSラジオ「松チャンの健康歳時記」のパーソナリティを4年間つとめるなど番組にも多数出演。日常生活における笑いの重要性を説いている。著書に「薬の社会誌」(丸善ライブラリー)、「薬の文化誌」(同)などがある。