東日本大震災から半年。地震は、大津波、原発事故を引き起こし、東北を中心に大きな被害をもたらしました。震災医療に関わった人々がどう戦ったのか。地震直後から現地で取材を続ける、医療ジャーナリスト、ノンフィクション作家の辰濃哲郎氏が講演した。演題は「災害時における医療従事者の役割〜東日本大震災から学ぶ〜」(MRコンシェルジュ記念講演より)。

 

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影で支えた人たち

 

 

 震災があってからテレビを見ていると、ある院長が「薬も物資も何も足りない」と悲痛な声を上げていました。それなら薬が足りないというのを検証できないか。医薬経済社のRISの編集長と話して準備をはじめました。


 一つ断っておきたいのは、私は医療というのを中心に見てきたんですが、医者の話しは、私の本にはほとんど出てきません。医療の主役というのは、医者なんですが、実は、それを陰で支えている人たちがいないと、医者は治療を施すことができないことに、私たちはなかなか気付かない。とくにこういった震災という非常時に、薬剤師や看護師、栄養士、理学療法士、病院の事務方、そして薬を運ぶ医薬品卸の奮闘なしには、医療は立ち行かなかった。医者というのは医療の主役ですから、ある意味でいつでもスポットライトが当たる。テレビのドキュメントでも、医者がクローズアップされている。が、そういった「脇役」たちに焦点を当てたドキュメントというのはあまりない。 


 医療関係者の方がいると思いますが、みなさん、いま心の中で想像していただきたい。もし今、地震が起きたとします。津波がきました。建物が海水で囲まれて孤立しました。自分の家族はどうなっているか。お母さん、お父さん、あるいは子ども、あるいは奥さん。津波に巻き込まれているかもしれない。そういう状況で、医療を続けていくことができるだろうか。逃げ出したとしても誰も非難はできない。自分の家族を探しにいったとしても、非難されるべきものではない。私が取材した「脇役」たちは、なかば自動的にも体が動いていた。医療をつないでいったんですね。


ほとんどが溺死

 

 

 私は、阪神・淡路大震災でも現地に行きました。阪神・淡路大震災のときは家屋が倒壊して下敷きになって救い出せなかった。外傷的な患者が病院に殺到した。でも、今回は、それとはまったく違いました。死因を見ると95%が溺死。津波にのまれた人達です。圧死というのは、神戸では9割を占めたけど、それが0.3%。ほとんどの人が溺死です。


 患者の搬送数を石巻赤十字病院、気仙沼市立病院の2病院で見てみると、11日に石巻赤十字病院が99人、気仙沼市立病院が64人。11日は2時46分に地震が発生して津波が来たとしても、3時半から4時の間です。それを割り引いたとしても、非常に少ないですね。津波で流されているから、道路の通行が不能になっている。怪我人がいても搬送ができない。あるいは、怪我人そのものがそんなに多くなかった。


 翌12日は、若干増えているんですが、一番多かったのが13日なんです。両方の病院で13日が多くなっている。これは低体温症の患者です。孤立したりとか、病院や集落が被災して建物の中に取り残され、周りが水浸しになって、外に出られない。そうすると低体温症になった人が、助けられたのが2日目や3日目なんですね。これが、一番多かった。医療に求められるものが、阪神大震災と東日本大震災では大きく異なっている。


新聞で保温

 

 
 3月に宮城県の公立志津川病院を訪れました。病院の前にチリ地震の記録がありました。津波が来たのが昭和35年5月24日。チリ地震のときの津波は2.8メートルでしたが、今回は4階まで来ている。海岸部から数百メートルしか離れていないところなんです。そこに務めている薬剤師の人と、この近辺の門前薬局の薬剤師から話を聞くことができました。


 みなさん揺れの後に「津波が来るのはわかっていた」と言います。ただ、どれぐらい大きいかというのがわからない。最初、患者さんを連れて、「ここら辺(3階ぐらい)だったら大丈夫だろう」と。外来の患者さんを連れて上にあげて3階にいたわけですね。ところが波が押し寄せてくる。どんどん埋まっていって、3階まで埋まってしまった。


 そして今度は引き波が起きた。津波は来るときよりも、引き波が強かったと彼らは言うんですね。引き波が起こったとき3階にいた患者さんの一人が、ベッドの窓を突き破ってボーンと出るのが見えたと言います。すぐに4階の患者さんを慌てて上にあげるんですけど、また次の波が来て手の施しようがない。さらに助かった患者を5階に連れていくんですが、そのときガスの匂いがしたと言います。「異臭がした」と。ガスの異臭がするので、ストーブはあったんですけど使えないわけです。


 でも、患者さんは濡れているわけですよ。だから濡れているのを裸にして新聞紙で包んで温める。それでも低体温症で次々とお年寄りが亡くなっていく。300人ぐらいの患者・職員がいたらしいのですが、70人が亡くなるか行方不明になったということでした。


次回②に続く