震災から20日が経っても、まだ気仙沼市立病院には患者が詰め掛ける。その入り口には「がんばろう気仙沼」の文字が張られていた。
「ケータイ、つながった!」。医薬品卸バイタルネット気仙沼支店の畠山和義係長は助手席にいた佐々木昭支店長に向かって大声で叫んだ。震災直後、自家発電機の燃料となる重油不足を解決した宮城県の気仙沼市立病院だが、今度は透析の材料となる血液回路が足りなくなっていた。3月17日分までしかストックがない。その血液回路を扱うライバルの業者は仙台市にあるが、電話や携帯がつながらない。バイタルで市立病院を担当する畠山係長は、病院の村上則行総務課長から「なんとか連絡が取れないものか」と頼まれた。
畠山係長は何度もその担当者に電話を試みたが、つながらない。ライバル業者ではあるが、血液回路がなければ透析患者の命が危ない。14日頃だったと記憶している。市役所の近くでauの携帯が通じるという情報を耳にした。佐々木支店長と車で乗りつけ、携帯を何度も担当者にかけた。10回目くらいか。電話が通じた。
担当者は気仙沼への道路が寸断されているため、納入ができるかどうかわからないという。では、抜け道をよく知っているバイタルネットの車で運ぶしかない。佐々木支店長は本社の内諾を得た。他社製品を運ぶことになるが、そんなことを言っている場合ではない。結局、その担当者が自力で病院に血液回路を運ぶことができた。期限まで1日と迫った16日だった。
私たち取材班は被災4日後から、福島県相馬市から宮城県石巻市、南三陸町、気仙沼市、陸前高田市の海岸線を連日、往復しながら災害医療の現場を訪ねた。海岸沿いの病院や診療所は津波の被害で機能停止に陥り、残った医療施設に患者が殺到した。通信手段を閉ざされ病院は孤立した。当たり前にあるはずの電気や水道、燃料、それに医薬品が途絶え、医師は患者を助ける手立てを奪われていた。
被災範囲が広く、道路網も寸断され、他の地域からの応援が期待できない。そんなとき、医療を下支えたのは同じ被災者である「脇役」たちだった。今回の連載で医薬品卸や薬剤師、看護師、病院の事務方らの奮闘に焦点を合わせたのは、必然であった。
自分の親の安否が不明なときでも、医薬品の搬送のために夜中、車を走らせた医薬品卸の課長がいた。妻のいる避難所に火災が迫っているのに、病院を守るために陣頭指揮した事務局長がいた。嫁いだ娘と孫が津波に襲われて連絡が途絶えたにもかかわらず、医師会長を支えるためとどまった事務長がいた。その娘の乗っていた車が見つかり、亡骸が近くの水路で見つかったのは私たちが訪ねた5日後だった。事務長はその土葬にも立ち会えなかった。
今、避難所や電気水道のない自宅に住む被災者らが、ストレスによる脳梗塞や心筋梗塞、あるいは感染症の危険に晒されている。災害医療の現場では、まだ戦いは続いている(終わり)。【被災地取材班】