同業者のツイッターにちらほら言及されている特集が気になって、今週はAERAを手に取った。特集のタイトルは『ノンフィクションを殺すのは誰か』。新聞から雑誌、あるいは書籍一般に至るまで、あらゆる「紙の文化」が斜陽化の道をたどるなか、私が身を置いているノンフィクションの世界は、とりわけ衰退が著しい一ジャンルだ。


 AERAの特集はその状況を一般記事と作家たちの座談会でまとめている。私自身の感覚で言えば、もともとノンフィクション作品のマーケットは、小説に比べると、10分の1程度のサイズしかなかった。林真理子氏によれば、昨今は小説家の世界ですら、印税と原稿料だけで生計を立てている人は数十人しかいないそうだから、ノンフィクション業界全体の悲惨な状況は、容易に想像がつくだろう。


 純文学も似た状況にあるようだが、問題は「作品性のある文章」が電子媒体になじみにくいことだ。ネットを万能視する人は、紙による活字文化を時代遅れととらえがちだが、紙からネットへとコンテンツが移行する過程で、少なからぬものがこぼれ落ちていることに気がついていない。そのひとつが、文章表現の「作品性」である。


 ネット空間では、文章を「情報」ととらえ、端的な論旨が求められる傾向が強い。文章のクオリティーを問わない代わりに、それは無償で得られるものだ、という考えが広がってしまっている。このような環境下においては、巧みな長文で描き出された世界に没入して、表現をじっくりと味わう作品が、収益を生み出す形では収まらないのである。


 もちろん俳句や短歌など、ごく短い「文学表現」もあることを考えれば、ネットサイズの散文で、小説や記録文学を成り立たせる表現技術もあり得るのかもしれない。だが、そういった新時代の様式がいつの日か確立するその日まで、あるいは電子書籍の市場が爆発的に広がるまで、ネットでは「プロの情報伝達者」はあり得ても、作品を生み出す表現者は、なかなか職業になり得ない。既存の表現者は、だからこそ、滅びゆく紙媒体にしがみつく以外にないのである。


 AERAの特集では、ノンフィクションが抱える特徴として、取材費が発生する問題にも触れている。先に廃刊された講談社の『G2』に関連して、20代の同社編集者が発した「(単行本の)実売3000という数字を考えると、それを読むのは限られた『村』の住人と考える他ない。ノンフィクション関係者は、『伝える』とか『伝わる』以前に『届いていない』という現実を直視する必要がある」という耳の痛いコメントにも焦点を当てている。


 同じ特集では、元共同通信のジャーナリスト青木理氏と、大宅賞作家の星野博美氏、社会学者でもある開沼博氏の3人が、対談をしている。ノンフィクション取材には手間暇とコストがかかる、という当たり前のことを3人は強調してくれている。


「ネット上でジャーナリストなどを名乗っている連中は危なっかしくって、時にはガセやデマを平然と撒き散らす。事実の裏づけや情報源との関係という作法だって、踏み外してしまうことが多くなりがちだ」と青木氏は言う。


 最近のノンフィクションに関連して「虚構と非虚構の間には大きな河が流れているのに、『売れたい』あまりにそれを軽々と飛び越えてしまう書き手があまりに多い」という星野氏の指摘も、取材が軽視される風潮への警鐘であり、実名こそ挙げていないが、どのような書き手を念頭に話しているのかは、何となく想像がつく。


 結局のところ、適当な作り話が混じっていても構わない、と考えるか、あくまでも、取材した事実を積み重ねて書いてほしい、と思うのか。この点に読者がこだわらなくなってしまったとき、ノンフィクションというカテゴリーは、本当の終焉を迎える。 

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三山喬(みやまたかし)  1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。1998年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。2007年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町:フクシマ曝心地の「心の声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。