10月8日、環太平洋経済連携協定(TPP)の首脳会合がインドネシア・バリ島で行われ、参加している12か国は「年内に交渉を妥結する」という方針を発表した。

 だが、TPPの全貌はいまだ明らかになっていない。参加国には交渉内容を公表しないことが求められているからだ。そのため、さまざまな憶測が飛び交い、医療分野でも「混合診療が全面解禁される」「国民皆保険が解体される」といった最悪の状況を心配する声も聞かれた。

 しかし、日本のTPP交渉参加による医療への影響を冷静に分析予測してきた日本福祉大学学長の二木立氏は、こうした『地獄のシナリオ』が実現する可能性は極めて低いという。それよりも、目前に迫った医療への影響は、「医薬品・医療機器価格規制の撤廃・緩和による医薬品や医療機器の価格上昇」だと指摘する。その根拠となるのが、アメリカ通商代表部(USTR)が毎年発表する「外国貿易障壁報告書」だ。これは、米国から見て貿易の妨げとなっている項目を列挙し、関係各国に改善を求めるというもの。アメリカによる日本の医療に対する市場開放要求は1990年代から始まったが、オバマ政権になってからは、その圧力が強まっている。

 たしかに、過去には混合診療の全面解禁、株式会社による医療機関経営の解禁が求められていた。しかし、今年4月に発表した「2013年度版」では、これらには触れず、「新薬創出加算の恒久化」と「市場拡大再算定ルールの廃止」に絞った要求に変わってきているのだ。

 日本の医療費は全国一律の公定価格で、医薬品の価格も2年に1回改定される。この時、新しい薬価は、実際の医療機関や薬局への卸値に見合った額に見直されるので、薬価改定のたびに値下がりするのが一般的だ。しかし、莫大な研究費を投じて開発した医薬品の価格がすぐに値下がりすると、医薬品メーカーは開発費用を回収できず、新たな薬剤の開発もままならなくなる。

 そこで、2010年度の薬価改定で、革新的な新薬の創出や適応外薬の開発などを目的に、ジェネリックがない先発品で値引き率の小さいものには一定の加算を試験的に行うことにした。これが「新薬創出・適応外薬解消等促進加算」(新薬創出加算)で、実質的な薬価は引き下げられずに維持される。

 もうひとつの「市場拡大再算定」は、予想以上に売れた薬は薬価を引下げるというルールだ。たとえ、効果の優れた新薬でも、年間売上額が当初予測された市場規模よりも2倍以上で、150億円を超えた場合には最大で薬価は25%引き下げられる。医薬品メーカーにとっては喜ばしくないルールだ。

 日本で混合診療の全面解禁や株式会社による医療機関経営を行うには法改正を伴うが、薬価算定のルールはそうした面倒な手続きは必要ない。てっとり早く自国の医薬品メーカーの利益を確保するために、試験的に導入している新薬創出加算を恒久化させ、市場拡大再算定ルールを廃止させることを、アメリカは当面の要求に据えたのだ。

 日本政府はどう対応するのか。二木氏は「市場拡大再算定ルールの廃止は、直接的に薬剤費の増加を招くため、日本政府はそう簡単には受け入れないでしょう。ただし、新薬創出加算制度の恒久化は日本の医薬品産業の振興にもなるという大義名分があるので、TPP発足を待たずに、2014年4月の薬価改定時に実現する可能性もあります」と予測する。

 新薬創出加算の恒久化は、画期的な新薬開発技術を持つ一部のメーカーには利益拡大のチャンスにはなるだろう。その一方で、膨脹する薬剤費をできるだけ抑えるために、長期収載品と後発品の薬価は大幅に引き下げられることが考えられる。

 加算対象の品目リストに名を連ねるのは、ファイザーなど外国資本が目立つ。国内メーカーは大手5社と一部の準大手に絞られており、そこから漏れた中小の製薬メーカーは厳しい経営を迫られることになる。TPP参加が医薬品業界全体の底上げになると考える人は、おそらくその期待を大きく裏切られるのではないだろうか。

 TPP交渉がこのまますんなりと通る確証はない。これまで主導権を握って、強引に交渉を推し進めてきたアメリカは国内の財政問題で外交どころではなくなっている。また、マレーシアやベトナムなど、他の参加国がはっきりとした対米姿勢を打ち出すなど、アメリカは苦境に立たされている。

 だが、TPPの全体交渉のゆくえに関わらず、新薬創出加算の恒久化は、日米二国間協議で実現する可能性が高い。繰り返しになるが、アメリカによる日本の医療分野への開放要求は年々強まっており、農業や自動車など他の交渉分野とのバーターに差し出される可能性が高いからだ。そうなれば、長期収載品が取扱いの主流である中小の製薬メーカーの業績は悪化し、医薬品業界の再編が進むことが予想される。TPPの交渉が妥結する、しないにかかわらず、日本の製薬企業には茨の道が待ち受けている。


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早川 幸子(はやかわ ゆきこ)

 1968年千葉県生まれ。明治大学文学部卒業。フリーライター。編集プロダクションを経て、99年に独立。これまでに女性週刊誌などに医療や節約の記事を、日本経済新聞に社会保障の記事を寄稿。現在、朝日新聞be土曜版で「お金のミカタ」、ダイヤモンド・オンラインで「知らないと損する!医療費の裏ワザと落とし穴」を連載中。2008年から、ファイナンシャルプランナーの内藤眞弓さんと「日本の医療を守る市民の会」を主宰している。