「酒は百薬の長」という。適量ならば、という条件が付く。度を超すと肝臓、腎臓を痛めてしまう。無着成恭先生は僧侶らしからぬことをおっしゃる。「酒と女は2合(号)まで」。
とはいうものの、つい飲みすぎてしまうのが世の人の常である。程のよさをわきまえている人は少ない。わきまえていても、時には度が過ぎてしまうことがある。そこらあたりの塩梅が難しいところであろう。粋で通せるか、野暮天になってしまうか。
論語孟子を読んでもみたが
酒を飲むなと書いちゃない
論語孟子を読んではみたが
酒を飲めとも書いてない
お酒を一滴も飲めない人がいる。アルコールを受け付けない体質なのである。日本人は欧米人に比べてアルコール分解酵素を持っていない人が多いといわれている。「オレの盃を受けとれないのか」と、飲酒を無理強いする人がいるが、これは止めたほうがいい。飲めない性質の人も、無理に飲まないほうがいい。要は分を心得ていることである。
お酒飲むとも梯子はおよし
女房忘れる癖がある
酒と女房とどっちをとると
問われて答えが出てこない
こうなるとかなりの重症である。よくチャンポンするから悪酔いをするといわれるが、いろんなお酒を飲んだせいではない。結論はアルコールの総量なのである。種類の異なるアルコールは、口当たり、味覚、のどごしが違うので、結果として飲みすぎてしまうのである。お酒なら2合で酔ってしまう人が、いろんなアルコールを飲んでトータルで4合、5合となっていたら、ぐでんぐでんになってもおかしくはない。呂律(ろれつ)が回らなくなり、足はふらつき、手は泳いで、周りの人が支えていないと、崩れ落ちてしまうといった状態になる。しっかりしている友人たちが、なんとか無事に自宅へ送り届ける。そのままおとなしく寝てしまえばいいのだが、カミさんに酒を持ってこいなどという。こうした酔態は落語などにも登場してくる。
大戸たたいて 酒屋を起こし
くだまかぬ酒 くだしゃんせ
根は小心なのにお酒が入ると気が大きくなって、あたりかまわず大声を張り上げるの図というのは、よくある話である。気のいいオカミさんの苦労がわかろうというものである。
「酒の上のことだから勘弁してやってくんねえ」というセリフは、芝居だけでなく日常生活でもずいぶんといわれてきたことだろう。酒が好きだ、というのは決して悪いことじゃない。自分の懐で飲んでいる分にゃ遠慮はいらないが、酒品というものがあってもいい。
いつもの暖簾を片手でくぐり
あるじ相手の冷の酒
返事はなくとも決まった場所に
ちゃんときている飲み仲間
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松井 寿一(まつい じゅいち)
1936年東京都生まれ。早稲田大学文学部卒業。医療ジャーナリスト。イナホ代表取締役。薬業時報社(現じほう)の記者として国会、厚生省や製薬企業などを幅広く取材。同社編集局長を経て1988年に退社。翌年、イナホを設立し、フリーの医療ジャーナリストとして取材、講演などを行なうかたわら、TBSラジオ「松チャンの健康歳時記」のパーソナリティを4年間つとめるなど番組にも多数出演。日常生活における笑いの重要性を説いている。著書に「薬の社会誌」(丸善ライブラリー)、「薬の文化誌」(同)などがある