美濃国に生まれ、88歳で博多で没した仙崖和尚(1750〜1837年)の話である。


 蘆葦(よしあし)の 中を流れて 清水かな


 河原に生えている蘆、葦。言い換えると、「善し悪し」となる。その中を流れて、きれいなままの水であるという句意。泥中の蓮、清濁併せ飲む、といった言葉を連想する。


 仙崖さんは「幕末の一休」といわれた。とにかく頓智(とんち)がきくというか、機転がきくというか、非常に機智に富んだ人であった。僧侶の最高位の人が着る紫の衣をとうとう身にまとうことがなかったという反骨ぶりを見せるかと思えば、商家のおかみさんと冗談をいい合うという気さくな一面も持ち合わせていた。臨終に際しては、弟子たちから「最期に何かいいお言葉を」といわれて、「死にともない、死にともない」といった。「天下の名僧とうたわれたお師匠さんが、こんな見苦しいことでは困ります。もっとましなことをいって下さい」といわれても仙崖さんのいった言葉は「ほんまに、ほんまに」であった。


 仙崖さんがなぜ美濃国・清泰寺を追われたかというと、新任の悪家老を揶揄したからである。


 よかろうと 思う家老が 悪かろう
   もとの家老が やはりよかろう


 この狂歌が当の家老の耳に入ったから、烈火のごとく怒って、唐傘追放という処置に出た。この処置は破戒僧に対するもので、傘一本の所持だけを許したからである。仙崖さんはこの時少しも騒がず、また狂歌を詠んで悠然と出ていった。


 唐傘を ひろげてみれば 天が下
   たとえ降るとも 蓑(美濃)は頼まじ


 身の置き所がなくなった仙崖さんは、諸国をめぐり修行を積むことになる。後年は博多の聖福寺の住職となるが、このお寺は奇しくも臨済宗の開祖・栄西禅師が開創した寺である。ある日、仙崖さんは田舎の禅寺へ出かけた。するとそのお寺の住職が仙崖さんをもてなそうと、仲良くしていた近くの法華宗の寺でとれる自慢の野菜の「ちしゃ」を分けてもらうため、小僧を走らせた。すると帰ってきた小僧は「博多の仙崖さんがみえてるなら」と、あずかってきた短冊を仙崖さんに渡した。


 禅家には 智者も学者も ないそうな
   法華の智者を 借りにくるとは


 この歌をみた仙崖さん、返歌を一首したためて小僧に持っていかせた。


 禅家には 智者も学者も 多ければ
   法華のちしゃを あえものにする


 博多の酒屋の主人で坂井宗平という人がいた。商売上手で店は繁昌、また目はしがきいて、仙崖さんに取り入るのもうまかった。何か持参しては一筆描いてもらい、まわりの人々にも同様の手口を教えたりもした。そんな拝金主義の宗平のやり方を、たしなめる一句を詠んでいる。


 おごるなよ 月の丸さも 一夜だけ

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松井 寿一(まつい じゅいち)

 1936年東京都生まれ。早稲田大学文学部卒業。医療ジャーナリスト。イナホ代表取締役。薬業時報社(現じほう)の記者として国会、厚生省や製薬企業などを幅広く取材。同社編集局長を経て1988年に退社。翌年、イナホを設立し、フリーの医療ジャーナリストとして取材、講演などを行なうかたわら、TBSラジオ「松チャンの健康歳時記」のパーソナリティを4年間つとめるなど番組にも多数出演。日常生活における笑いの重要性を説いている。著書に「薬の社会誌」(丸善ライブラリー)、「薬の文化誌」(同)などがある