仙崖和尚の話を続ける。幕末の人だったので、頼まれて、あるいはせがまれて書いて描いて、書きまくった書画は厖大(ぼうだい)な数にのぼる。どのくらい現存しているかは不明だが、出光美術館には1000点余が所蔵されている。1年か2年に1度、「仙崖展」が開かれているのも、むべなるかなであろう。
うらめしや わが隠れ家は 雪隠(せっちん)か
来る人ごとに 紙をおいていく
いかに大勢の人が書いてもらいにきたか、仙崖さんの嘆きが手に取るようにわかる。ちなみに雪隠とは便所のことである。
仙崖さんのことを書いた本は何冊もあるが、倉光大愚(くらみつ たいぐ)という人が昭和5年に著した「仙崖和尚臍ッ骨」のはしがきの一部を紹介しよう。
文化文政の頃、筑前国博多の聖福寺に住していた仙崖和尚は、体躯は四国猿の日干に似ていたが、口を開ければ、奇想天外から落ちるようなことをいう。筆を揮(ふる)えば、古今の名画家といえども、全て及ぶことのできない思量し得ない不可思議な線をもって、森羅万象を描く。賛を加えては、見る人を驚倒させずにはおかなかった。しかしながら和合は、これらの行解(ぎょうげ)をことさらに頭から織り出したのでは無論ない。一つは天稟(てんぴん)にもよろうが、座禅して大閑が明けた結果であろうと思う。無化の化、無為の為、無作の作、、、何もかもこの「無」から現れてきた結果であろう。といってこの「無」は世間でいうところの「無」ではない。「無」もまた「無」にした、そこにも尻をすえていない「無」である。「十年帰り得ざれば、来時の道を忘却す」というところである。そして有も無も、真諦も俗諦も、空理も仮観も、すべて打失し、その打失した厄介ものも、西の海へさらりと放り捨ててしまった。寒山か普化(ふけ)の再来ではあるまいかと思われる(中略)。
今日でも博多へ行って、仙崖さんといえば、3歳の童子すら知らないもののいないほど、和尚の徳は博多人の骨髄に遺伝的に沁みこんでいる。いや、博多ばかりではない、筑前一帯である。さらに大きくいえば、九州全土といっても過言ではあるまい。和尚は九州聖人だ。博多の仙崖大菩薩だ(和尚自身も崖菩薩といっていた)。そしてやっぱり、慕わしい「仙崖さん」である。
仙崖和尚には「老人六歌仙」という老いを戒める歌がある。
しわがよる ほくろができる 腰曲がる
頭がはげる ひげ白くなる
手はふるう 脚はよろつく 歯は抜ける
耳はきこえず 目はうとくなる
身に添うは 頭巾襟巻 杖目鏡
湯婆(たんぽ)温石(おんじゃく) 洩瓶(しびん)孫の手
聞きたがる 死にともながる 愚痴になる
出しゃばりたがる 世話やきたがる
くどくなる 短気になる 淋しがる
心はまがる 口よだれくる
またしても 同じ話に 子を誉める
達者自慢に 人は嫌がる
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松井 寿一(まつい じゅいち)
1936年東京都生まれ。早稲田大学文学部卒業。医療ジャーナリスト。イナホ代表取締役。薬業時報社(現じほう)の記者として国会、厚生省や製薬企業などを幅広く取材。同社編集局長を経て1988年に退社。翌年、イナホを設立し、フリーの医療ジャーナリストとして取材、講演などを行なうかたわら、TBSラジオ「松チャンの健康歳時記」のパーソナリティを4年間つとめるなど番組にも多数出演。日常生活における笑いの重要性を説いている。著書に「薬の社会誌」(丸善ライブラリー)、「薬の文化誌」(同)などがある