川崎のスクールバス停留所で、小学生の列に刃物で襲いかかり、成人男性と女児ひとりずつを刺殺、さらに18人に重軽傷を負わせ自殺した51歳引きこもり男性の事件。そして、元農水省事務次官というキャリアを持ちながら、44歳無職、家庭内暴力を振るう引きこもりの長男に危機感を抱き、自身の手で殺害した76歳男性の事件。先週から今週、立て続けに起きた2つの惨劇は、40~64歳に約61万人も存在するという中高年引きこもり問題の深刻さを、強烈なインパクトとともに世間に知らしめた。
引きこもりは本来、それ自体が暴力的犯罪に直結するものではない。だが、「8050問題」(80代の親が50代の引きこもりの子どもを養う問題)と呼ばれているように、中高年の当事者は、老親の死とともに“生命線”を断ち切られる不安のなかにいる。老親もわが子の行く末に悩み続けている。この時代、もはやレアケースとは呼び得ない広範な社会問題と理解される事象だけに、今回、両事件をめぐる議論は総じて真剣で、軽々しく無責任な発言は抑制気味に見える。
そこには、中高年引きこもりの当人が引き起こした惨劇と、わが子が“加害者”になる危険性を感じた、と供述する老親による殺人という「双方向の事件」が相次いで発生したショックも影響しているだろう。昨今はさまざまな社会問題で、当事者を吊るし上げる“ネットリンチ”が起きがちだが、今回の問題はとても誰かを糾弾して済む話ではない。そのことを、極端なまでに正反対の事件が起きたことで、万人が理解したのである。
川崎の事件発生直後には、毎度おなじみの“一方的吊るし上げ”になりそうな兆しも垣間見えた。「死ぬならひとりで死んでくれ」という落語家の炎上発言である。もちろん落語家本人は、今回の犯人ひとりを念頭にそう言ったつもりなのだろうが、聞く側からすれば、犯人同様の環境にある“予備軍”へのニュアンスも感じ取れる。煉獄の苦しみのなかにいる引きこもり当事者や家族の内面には一切目を向けない。
だが現実には、元次官による“子殺し”という展開が、視点の欠落を埋めた。“勝手にやってくれ”と突き放すその向こう側の空間にも、数多くの家族の苦しみがあるのだと。追い詰められた元次官は、家庭内で息子の命を“処理”する決断をした。こうなると、さすがに世論も凍り付く。部外者は軽々しい発言を慎むべきだろう。図らずも、そんな“常識的判断”が広がったのである。
改めて考えると、生活保護バッシングであれ、有名人の不倫や薬物事件への非難であれ、昨今のワイドショー的コメントやネット炎上の大半は「アカの他人が留飲を下げるためだけの痛罵」でしかない。問題の本質を真剣に考え、状況の改善を本当に望むなら、言いっ放しの悪態など、議論の邪魔にしかならないものである。
一方的断罪、吊るし上げと言えば、昔から週刊誌報道の“得意技”である。だが、前述したような事情からだろう、今回は通常よりそのトーンは弱い。文春のトップ記事『元農水事務次官を追い詰めた長男の「真っ先に愚母を殺す」』にせよ、新潮の『あなたの隣にいる「中年引きこもり」の正体』にせよ、元次官長男の歪んだ性格を掘り下げているものの、不用意な一般化は控えようとする配慮は読み取れる。
新潮は別記事では、『立川志らく「一人で死んでくれ」炎上で置き去りにされる重大議論』と、あの炎上発言の擁護も試みている。しかし落語家本人は、被害者の家族でも関係者でもない。そんな部外者の“感情の発露”が、守られるべき“重大議論”と呼び得るのか。義憤にかられた第三者が“溜飲を下げる”ためだけに口にした言葉。極論するならば、この言葉はごくごく小さな確率で、未来の犯罪を抑止するかもしれないが、元次官の事件では、その背中を押す「空気感」を醸成した影響だって否定できないのだ。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。