朝日ネタにはさすがにもうウンザリしているが、大手4誌でただひとつ、朝日攻撃をまだ続けている新潮のスクープ(?)がどうしても気になるので、本当に最後のつもりで取り上げたい。 


『新聞協会賞「手抜き除染キャンペーン」に自作自演の闇がある』という5ページのトップ記事である。福島での除染作業がずさん極まりなく、地表からはぎ取った土を川に投棄している、などとしてその実態を暴いた朝日記事について、取材協力者のひとりだった元除染作業員の告発として、「やらせ報道」だと批判している。 


 一方の朝日新聞は9月11日の謝罪会見以後、一連のバッシング報道に白旗を揚げ続けているが、この件に関しては、元除染作業員とのやり取りの録画などを根拠として記事を否定、新潮社に抗議している。


 言い分が180度食い違うこの手の問題は、記事にされた当事者から話を聞くなどして検証してみないと、判断は下せないものだが、珍しく朝日が強硬姿勢を見せたことだけでなく、新潮の当該記事からも、これ大丈夫か?という疑念が臭い立つ。 


 もちろん、最終的に新潮の主張に軍配が上がる可能性もゼロではないのだが、“雑誌記事の業界人的読み方”を説明する好例に思えるので、紹介する。 


 新潮記事は、基本的にこの元作業員の証言によって作られており、①「除染した土を川に落としてもいい」などという現場監督の指示を録音したことは、彼の自発的な行為ではなく、朝日記者に録音機を渡され、唆されたものだった②テレビでも放映された自身のコメントは、記者に渡された紙を読み上げただけだった——などというものだ。 


 だが、記者の同席が叶わない場面での撮影や録音を協力者に依頼することは、テレビや雑誌の“潜入取材”でも、よくある手法である。「紙を読み上げた」という話も、朝日側はそれを否定できる映像があると主張している。 


 ここまでは、まだ“水掛け論”である。だが新潮は記事の冒頭で、この告発者から1年以上にわたり150枚を超える手紙を受け取ってきたとしている。いったいなぜ、かくも長期間、記事にするまで腰が重かったのか。そんな素朴な疑問が湧く。 


 その疑問が記事終盤の記述へと結びつく。元作業員は同僚から7万円の横領罪で訴えられ、さらには別の窃盗事件でも逮捕され、現在は拘置所に収監中なのだという。 


「利用するだけ利用して捨てられた」 


 新潮への手紙でそう嘆いたという元作業員は、そもそも何を期待して朝日と接触し、さらには新潮にもコンタクトをとったのか。手抜き除染への「純粋な義憤」が発端なら、朝日取材の何がここまで彼を失望させたのか。次に執拗な手紙攻勢で新潮に働きかけたのは、本当に朝日の報道姿勢への「義憤」からだったのか。 


 いざという場面で朝日はバックアップしてくれなかった、と元作業員は憤るが、横領や窃盗の刑事事件を引き起こしてしまったら、記者としても救いようはない。 


 読み込めば読み込むほど、疑問が湧いてくる記事なのである。新潮といえば、赤報隊による朝日襲撃の実行犯として名乗りを上げた人物の記事を大がかりに取り上げた大誤報が記憶に生々しい。このとき、新潮は記事を取り消して謝罪したが、当の告白者はほどなくして遺体として発見され、自殺したと見られている。 


 もともと新潮は、青臭く正論を振りかざす論法でなく、底意地の悪い粗探しが持ち味で、そのタッチに強固なファン層がいる。だが今回のケースでは、1年以上の逡巡、という経緯から考えて、おそらくは自分たち自身、情報源の危うさを認識しつつ、このタイミングなら、と掲載に踏み切った、と考えるのは穿ちすぎだろうか。 


 もちろん筆者はその内実を何ひとつ知らないが、怪しげな臭いのする記事、筋の悪そうな話、というのは、得てして記事そのものから感じられる、という話である。

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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。1998年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。2007年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』(東海教育研究所刊)など。