●緩和医療がつくり出す「死の医療化」


「介錯」を広辞苑でひくとこう書いてある。

①    世話をすること。介抱すること。また、その人。後見。

②    切腹する人に付き添って首を切り落とすこと。また、その役の人。


 至って無知であることを告白しなければならないが、筆者は「介錯」とは②のことであり、それ以外の意味はないと思いこんでいた。


 時代劇で武士が切腹するとき、「介錯を頼む」とか、「介錯仕る」などという定番の台詞の印象が強すぎた。実はそうではないと知ったのは、公衆衛生学者から在宅訪問医となった大井玄・東大名誉教授の著書、『病から詩がうまれる』を読んだからだ。


 あるとき、大井医師はがん性腹膜炎で苦しむ50代後半の患者に対し、モルヒネの投与量をどんどん増やしていく緩和医療を試みた。1日1500㎎まで増量したところで、その患者はもう増やさないでほしいと懇願した。「麻薬はありがたい。が、それを打つと眠くなる。彼は眠っている間の死を恐怖したのだった」として、それぞれの患者から何かを学ぶとの認識を改めて感じたことを示唆している。


 このエピソードの前提で同氏は、「終末期医療でもっとも重要な手当ては病者の苦痛を取ることは言うまでもない。『介錯』の目的は苦痛を取るためにいのちさえ絶つのである」と語っている。原文では「介錯」をカッコ書きなどはしていないが、この文章で私は初めて「介錯」という言葉をこういう場面で使うことに出くわした。


 それで、広辞苑をひいた。つまりそういうことであったのかと腑に落ちたが、しかし同時に同氏がここで「介錯」を使ったのには、②の意味も濃厚に含まれていると確信した。がん終末期患者に、彼はたぶん「介錯」を頼まれていた。苦痛を取るためには「いのちさえ絶ってもいい」覚悟を患者も伝えたのであろうし、医師もそれを了とした。モルヒネ量を増やしていくのは、「介錯仕った」のであろう。それでも眠っている間に死にたくない人がいるのだ。最期の介錯は要らない、と。


 この話で思うのは、終末期患者の多くが、「延命医療は要らない。してほしくない。痛いままで死にたくはない」と言うが、それが実は本音だとどうも我われは思わされているのではないかという疑念だ。大井医師は「それぞれの病者から何かを学ぶ」と述べるが、それは終末期に緩和医療を望む患者でも一様ではないということを示している。


 このエピソードで大井医師は患者から学ぶことに重点を置いているので、前後は筆者の類推になるが、どんどんモルヒネ量を増量していく動機は、患者が、当初はとにかく苦痛を嫌がったからであろう。介錯する刀の代わりがモルヒネだ。


●人間だから去り際は自覚的でいたい


 痛くしないでくれ、つまり介錯してくれと言うが、そのときが近づくとどんなに痛みがあろうとも、この世からの去り際は見ておきたいというのも人間だ。介錯を頼んだが、やはり心変わりする人がいる。これは責められないが、そういう状況の人を緩和医療の現場では対応できる準備はできているのだろうか。


「苦痛なく旅立たせてくれ」は、いわば「事前指示」であり、緩和医療の現場では事前指示優先だとすれば、このエピソードのようなケースではどう対処するのだろうか。事前指示に違背して、今はの際に豹変した患者の姿勢に付き合うのは教科書にあるのだろうか。介錯を頼まれ、その任務を了解した介錯者は任務放棄だと指弾されるのか。


 話を少し脱線させれば、今はの際に自分を見たいというのは哲学的でも何でもなく、人間の人間たるゆえんという側面がある。自分の最期を自覚的に見たいというのはかなり崇高な欲求であり、理想に近いものだとも言える。そうした「こころの世界」への深い洞察なしに、眠っている間の死を恐怖する人の意に沿うのは間違ってはいない。


 しかし、最近の延命医療批判や、いわゆるピンピンコロリ願望などは、どこか無理がある、素直ではない、そう思わされている、と筆者は感じる。大井医師の「介錯」は②の精神に支配されながらも、①の境地に戻る医師のごく当然で公正なジャッジである。


●医療以外の科学の出番


 近年の延命医療忌避、ピンピンコロリ願望には、世間的に特にがん医療では誤解があるからではないかという医師もいる。


 福井県のおおい町名田庄地区で診療所医師を務める中村伸一氏は、著書『入門!自宅で大往生』で、自らの経験を照らしながら、医師の多くはがんで死にたいと思い、一般の高齢者の多くはぽっくりと死にたいと考えているという。


 中村氏は、これを医師は「ジックリ逝き」、多くの高齢者は「ポックリ逝き」を望むと面白い表現で語っているが、高齢者がポックリ逝きを望むのは、「死へ向かう不安や恐怖に思い悩まず逝けると思うから」で、医師がジックリ逝きに求めるのは、「人生の店じまいの準備期間があること」だと述べる。


 中村氏は、この視点から、一般人にはがん医療は化学療法や放射線治療が苦痛を伴う延命医療という印象があり、さらに緩和医療はがん治療が放棄されてからの医療だとの思いがあるという。そのうえで、現在ではがん治療と緩和医療は並行して行われること、痛みだけとるのが緩和医療ではなく、延命的な医療の側面もあることなどを解説している。


 こうした解説が諄々と説かれるのには、現代の医療に対する不信、特に「死の錬金術的な医療化」に関する漠たる不信が一般に拡大しているからではないか。筆者の私の主観を言えば、できればポックリ逝きが望ましいが、死の瞬間は自覚的でいたい。覚醒しているが痛みは苦悶するほどではなく、できれば看取ってくれる家族などに感謝と別れを告げたいと思う。それを贅沢とか、無理と言わず、多くの看取りの場面で実現できるようにする科学があってもいいように思う。医療に介錯されるのではなく、平穏な覚醒意識を科学で実現してほしい。医療は生き返らせる科学であり続ければよい。


●「生死は不確実」を無視する事前指示書


 安楽死を容認する国が増え始め、日本でも尊厳死や平穏死が一般人の教養と常識とたしなみとマナーになり始めている現状で、一斉に早く死んでしまえという議論が起きている。そしてそれを支える道具となり始めているのがリビングウィル、エンディングノート、総じて言えば「事前指示書」だ。介錯を要請する意味で、「延命医療は拒否する」と事前に指示しても、人の心は移ろうし、また人それぞれだ。医療がそこに分け入って独断解釈し、事前指示書に忠実になろうとしているのが現代なのだ。


「死の医療化」を懸念し、事前指示書に強い危惧を抱いているのは、アイルランドの内科医シェイマス・オウハマニーだ。彼は著書『現代の死に方』で、事前指示書ブームを必要悪として受け入れざるを得ないかもしれないとしながらも、生死が不確実なことを無視した「幻想を永続させるもの」として、その推進に賛成しているアトゥール・ガワンデなどに厳しい批判を示している。『死すべき定め』の名著で高名なガワンデまで批判するオウハマニーの主張は、どこか「介錯」の不要を示した大井医師の考え方と通底するものがある。(幸)