前回はMOSS協議から始まった1985年以降の日米経済協議の流れを総括する中で、協議された個々の内容では合意に近いものがまとまり、それがその後の日米間のルールとなっているケースがないわけではないが、全体に政府間で始まった多項目の協議が、一括して合意や協定に進んで、それが両国の経済運営に親和性をもたらしたとか、一定のハーモナイズを得たという歴史的事実はないとしたが、その中では一定の合意を得たという印象を残し、実際に国内法の改正や、市場開放に結びついた少ない例が「日米保険協議」とみられている。そのために、いくつかの経済学のレポートでは、日米経済協議の内容を語る中で、ほとんどが「保険」に関しては、「問題なし」だとしており、それを鵜呑みにするような形で、メディアの関心もあまり多く払われていない。
しかし、日本の社会保障体制の今後の動向に強い影響を与えるとみられる、民間保険の第3分野を軸とした日米間の保険協議が、まったく問題なしに行われ、双方、友好的に協議が終わったとは考えにくい。「市場開放」と前述したが、がん保険、民間医療保険といった第3分野の保険商品は1970年代に、日本の第1(生命保険)、第2(損害保険)の各分野の国内市場をさまざまな規制によって護送船団方式で開放しない代わりに、第3分野のみを外資だけに許容するという、あまり知られていない市場形成が行われたため、1990年代の日米保険協議は、外資が占拠する市場を、国内企業にも開放するという極めて異例の協議である。
いわば第3分野については、日本市場は植民地化していたわけで、その経緯が大市場を非開放するという戦略に基づくものであったとしても、外資による占拠市場を国内企業に開放するのに、難色を示す米国側という構図は、簡単そうでわかりにくい構図であったともいえる。
●激変緩和後もシェア変動は少なかったが
1994年にスタートした日米保険協議は、1996年に一定の合意を得た。これを受ける形で56年ぶりに同年に保険業法の改正が行われ、保険商品の開発、販売は実質的に自由化された。ただし、外資への優遇措置が長く続いた第3分野については、2000年までは外資と中小保険企業だけに販売が認められる激変緩和措置がとられ、これも2001年に撤廃され、現在に至っている。本質的に自由化されたが、第3分野の市場は前回でも示したように、そのシェアは現在も外資系が圧倒している。
実は、この激変緩和措置も日米保険協議における交渉の結果とされるが、合意措置の点検状況を報告した米国政府内のレポートでは2001年の措置撤廃を直前であっても、あまり大きな問題はないと報告している。つまり、第3分野において措置撤廃後も米国企業が、市場自由化によって不利益を受ける状況ではないと、米国側が判断していたと受け取れる。そして実際、自由化後も外資の寡占状態は大きな変化をみせていないのである。
長い寡占状態で、日本の消費者に外資保険商品の存在がインプットされてしまったこと、日本の保険会社の横ならび商品開発志向が続いたために、保険商品の銘柄別選別意識が低いことなどが要因だろう。つまり、生命保険は「生保」として認識されているが、どこの会社の商品でも皆同じだと消費者は長く認識させられてきたのであり、損害保険にしてもしかりである。がん特約、医療保障特約、傷害補償特約がついても、あまり個別化して消費者は判断しない。
また第3分野については、これまたがん保険、医療保障保険としての商品個性については認識したものの、いわゆる資本形態や、分野規制などといった概念はおそらく生じないまま、国内市場が形成していったものと言える。業界全体からみれば、商品間の販売戦略、営業戦略は分野別に大きく違うが、消費者の目には見えにくい。商品というより、こうした保険カテゴリーの違いのみが、消費者に認識されている以上、外資のシェアが高い第3分野は、自由化しても国内消費者の選択動向には大きな影響を与えないと米国側は2000年末時点で判断したのではないだろうか。
●生損保市場の自由化を拒むための方便だった第3分野
ただ、1994年から行われた日米保険協議は、第3分野が最大の懸案事項だったことは間違いない。だが、ここで、こうした問題にアマチュアな側から見ると、保険業法の改正(1996年)まで、外資市場の既得権市場だったとされ、実際、国内保険会社が参入しなかった第3分野は、客観的にみるとどうして外資だけが第3分野保険商品を販売できたのかは、非常にわかりにくい。
歴史的経緯からみれば、戦前の生損保保険の統合あるいは相乗り化の中で、あまり国内需要のなかった第3分野を外資に残し、これが戦後の金融商品としての保険商品市場に対する外資参入バリアの役割を果たしたと言えそうだ。つまり、わかりやすくいえば民間保険の持つ巨大な金融能力を国内金融政策の中で、金融市場への外資を不可侵的に維持するために、あまり商品能力のなかった、小さかった時代の保険商品を外資にもたせることで方便を作ったという形跡がある。
その意味では、第3分野はいわば、金融の戦略的な措置的政策であり、実は規制する法的根拠は何もない。保険関連の識者に言わせると、日米保険交渉の焦点となった第3分野は、外資の権益や既得権は曖昧な存在で法的には存在せず、そのため、保険の自由化を協議する日米保険協議で第3分野の自由化を盾に、その代償的政策を求める米国側の主張はそもそも存在しない「障壁」を論議するものであって、ほとんどその根拠はないということになる。つまり、日本国内の政策的戦略で築き上げた「市場」は、第3分野においてもその法的根拠はなかったわけだから、単純に自由化に際して、論議の必要のないテーマということになる。
しかし、外国(日本)で寡占した市場の「根拠のない理由」による米国の主張、つまり日本側の日本市場の開放政策に難色をつけるという姿勢そのものがおかしかったということになる。たいそうわかりにくいのだが、図式としては政策権限が及ぶはずのない日本市場の規制に関して、米国自身が米国が得た日本市場の開放を盾にするという、きわめて歪で不思議な協議が行われたのだ。どうして、こうしたまさに植民地的交渉、不平等的な交渉が行われたのかがあまり関心を持って語られなかったのだろうか。
なお、日米保険協議における第3分野の市場開放とその代償措置に関する米国側の主張の多くは、郵便局の簡保への規制強化がある。
●意味深な小泉政権の郵政改革
第3分野の保険市場の自由化に関して、米国側が強力に閉鎖的な姿勢で対応してきたのは、当然、日本の高齢化と公的医療保障の動向に対する戦略的観測、日本市場のスケールと当該分野の成長への期待があるのは自明だ。
日米保険協議は、これまで述べてきたように近代では、まれにみるパラドキシカルな政府間協議だったわけだが、日本側が第3分野の市場自由化を目指した背景には、高齢化に伴うこうした保険商品の付加価値が高まるという認識は存在したに違いない。しかし、米国が、そうした将来展望をにらんで協議に持ち込んだのと違い、日本側がこうした問題認識に少し鈍感だったような印象も持つ。その後、2000年代に入って、いわゆる新自由主義的な経済のグローバリズムに沿って、いわゆる小泉改革における医療保障制度への圧倒的な冷淡さをみると、米国内には、自助の拡大に伴う医療保障制度の大胆な改革が日本では進行するという観測があったのではないかと思えるし、その小泉政権が郵政改革を訴えて、総選挙に勝利した過程を振り返ると、日米保険協議における交渉の中身とその後の展開は非常に意味深にみえてくる。
2001年の激変緩和措置の撤廃後は、少なくとも目に見えるところで、米国の保険分野に関する日米交渉の申し入れなどはなく、米国政府内での批判も表面化していない。前述したように、一定の市場形成に成功した米国資本の第3分野シェアはその牙城を保持したままだ。そしてこの市場は、日本の高齢化とともに成長の途上にある。
●奇妙な公的医療保険とリンクした論議の欠落
現在、第3分野の保険商品の市場は、保険料ベースで5兆円を越える規模だとされる。これに対し、給付金はその2割程度とされるから約1兆円を超える。実をいうと、こうした資料はどうもよくわからない。残った4兆円を超えるとみられる資金がどうなっているのか、公表されたものはないようなのだ。いろんな文献や、資料から類推すると、当然、企業活動であるから営業経費もある。途中解約など返戻金も少なくないようだ。
また現在、若い人が加入している保険商品の給付に備えての準備積立金も必要になってくるのも理解できる。しかし、その営業経費や、積み立て準備金の割合、そしてその使われ方などもよくわからない。公的医療保障の医療費がこれだけ論議される中で、第3分野のマーケットと、その給付状況、利益の水準などがほとんど論議のテーマとならないのは不思議な印象を受ける。
一方で、給付の内容などについて、各社からそれぞれ特色をもった保険商品が相次いで開発される状況にもある。現在でも、一般的なのは入院保障だが、日進月歩する医療技術とそれに追いつけない公的医療保険給付の隙間をつく商品開発も行われているのは周知のとおりだ。たとえば、特定療養制度の非給付部分をカバーしたり、あるいはがん保険では粒子線治療を給付対象とした保険商品も作られている。
だが実質的な2001年以降の第3分野の保険商品をみると、リスキーな商品も多いことが指摘されている。例えば、増え始めている終身型の医療保障保険は、現在の公的医療保障の先行きが不透明なことや、医療技術の進歩と公的保障との兼ね合いなどが、予測管理できるのかどうか。あるいは予防、健康寿命の考え方など、国民的な疾病認識の変化などが起きた場合、商品需要は維持できるのか。例えば、画期的な予防法、治療法が安価に提供できるなどのドラスティックな事態が起きた場合、返戻の多発リスクが起きるのではないかなど。
現実にそうした事例は起きている。例えば、入院保障などをみても、以前は7泊以上の入院を給付対象としていたのに対して、現在では1泊2日から給付する商品も販売されているし、そのほうが主流になりつつある。公的医療保険が長期入院を厳しく制限したことによって、入院が短期化する中では、長期を前提にした給付型の商品の価値が下がってくるのは当然である。しかし、保険商品として短期入院対応が必然的かどうか、議論の分かれるところだ。さらに、がん保険などでも、高額な治療薬の開発が一段落して後発品への転換が常識的になったときどうするのか、粒子線治療が保険対応になった場合は……。
このように、第3分野の保険商品自体の行方も、実は2001年以降、公的保険や技術進歩の動向で混沌化している状況も生まれている。
一方で、医療費をめぐる論議の中で、こうした第3分野の保険にスポットが当てられるときも近いように思える。例えば、公的医療保障を現在の年金制度のような2階建て型で発想するとどうなるか。年金は老齢基礎年金をベースに、厚生年金、共済年金などが上乗せされる2階建てだが、医療保障も基礎分野の医療保障給付を制限的に行う一方で、保険者機能を活用して、現在の第3分野型の保険を、半ば公的制度として導入する可能性も出てくるだろう。そのとき、現在の第3分野保険がモデルとして移行できるかどうか、利益的側面をオープンにしない「民間商品」が生存できるのかどうかという問題にもぶちあたる。
世界に例のない速度で進行する日本の医療保障制度が、オリジナリティのある政策への転換を余儀なくされるとき、再び日米交渉の必然が生まれるはずだ。TPPという厚い政策攻防のひとつは、国内社会保障制度改革の展望の中で、行われる必然がこうした状況から見えてくるのである。
次回からは、日米交渉の新たな多項目、多分野にわたるTPPについて、医療技術イノベーションの分野も含めて展望していく。(幸)