戦後の医薬品市場の主役となったのは、言うまでもなく医療用医薬品である。この連載で何度か触れたように、1961年の国民皆保険制度が、医療用医薬品中心の医薬品市場を確立させたことは、間違いない事実だ。
しかし、その前から、欧米の旺盛な新薬開発の影響は、国内医療を医療用医薬品が中心の「薬物治療」に転換させていた。例えば、有力なデータは少ないが、1950年代から子どもを中心とした感染症には多くの医師が、抗生物質を使用することが常識的だったことが窺え、さらにそれが子どもの死亡率を優位に減らしたともされる。こうした目に見える「医療の力」が、国民の受療意欲を掻き立て、「切れ味のいい薬」、「有益な医療」へのアクセスを希求させた。
こうした国民の希求とともに、実は1961年の国民皆保険制度は、戦後経済が成長、安定し、医療施設が全国に整備されるメドがついたことが、全国一律の制度導入に舵を切らせた側面が大きい。1950年頃のメディアは、盛んに日本の医療提供体制が不十分なことを嘆いていたが、当時は、医師が少ない、医療施設が少ない、施設を増やすファンドが小さいといった諸要素が積もっていて、それどころではない状況も一方には大きかった。国は、まだ国民を食わせることに精一杯だった時代。当時のある新聞には、「『病院を作ってくれ』という要望はあるけど、セメントがない」というエピソードが載っている。
戦後10〜20年間ほど、「地域に医療施設を」というニーズは、特に自治体首長の選挙公約に判で押したように並べられていたことでも、その大きさがわかる。ある首長経験者は「1955年頃でも、自治体病院を作れという住民パワーは大きかった。しかし、初期投資、ランニングコストなどを考えると、実際に首長の判断は難しい部分もあった」と言う。「現実に、その後、自治体立病院があるか、交通事業経営をしているかで、自治体の体力に格差がついた側面が強い。市民病院を持たず、市営交通を持たなかった地方中核市ほど後になって財政健全度が高い結果になった」。自治体病院はその後、1県1医大構想で増加した医科大学医局の系列病院の役割も果たしたが、今では高齢化とともに自治体そのものの体力も奪っている。
●戦争直後は診療所、以後は病院開設ラッシュ
セメントがない時代をくぐり抜けながら、それでも戦後すぐから医療施設は急増している。終戦年の1945年、当時の内務省の衛生年報では、病院は645施設、診療所は6607施設しかない。前回にも触れたように、戦前・戦中を通じて医師不足となった状況から、戦前政府は医専などの医師教育機関を作って、医師を増やした。戦後は促成された医師や、いわゆる「引き揚げ医」などによって、医師はいたが、施設は少ないという状況にあったことが窺われる。
戦後すぐの医療施設整備は公的医療機関を中心に行われている。前述の自治体病院へのニーズでもみられるように、戦後の一時期は「医療施設は公的機関が設置するもの」という概念が常識化していた形跡がある。1945年には戦前の陸海軍病院が占領軍から日本政府に返還され、これが国立病院、国立療養所として病院整備の基幹を担った。
さらに、戦後3年目の1948年には医療法が定められ、病院設置費用の国庫補助が行われる。このときの対象には、日赤、済生会、厚生連などの団体も加えられ、これらの病院がその後、「公的病院」として位置づけられる契機となっている。こうした公的病院の設置ラッシュが始まると、その乱立がほどなく問題化してくる。例えば、1955年には総病床数は51万床を超える程度だったが、民間病院の病床数は20万床しかなかった。しかし、1960年には総病床数68万床に対し、民間病床数は40万床に近づいている。
この間、1956年の社会保障制度審議会で公的医療機関の乱立について問題提起され、これが1962年の公的病院の病床規制につながった。一方で、民間病院は自由開業制が堅持され、旺盛な病院事業への進出が続く。民間の病院事業については、1950年の医療法改正で、医療法人制度が整備され、税制対応などで民間の開業インセンティブが働いたこと、1960年には医療金融公庫が発足し、民間病院、診療所開設への低利融資が導入された。つまり、民間の医療施設整備にも公的資金が投入されたのである。
●公的医療施設は抑制、民間は活性化へ
戦後20年間を簡単に振り返ると、当初は公的病院による医療提供体制整備を導入口としたものの、その後は民間への金融を含めた制度的対応で、医療施設整備が進められたことになる。ただ、この間、いくつかの審議会レベルでは、医療提供体制の整備が個々に、あるいは自由に行われ、総合的な計画下で行われないことを危惧する指摘が行われていたことも事実である。
公的医療機関の設立抑制が意識されたものの、民間の自由開業に関しては、1955年頃から制度的インセンティブもあって、活性化された印象が強い。医療提供体制の整備が進むと一般の受療意欲も高まる。そのため、医師不足も顕在化した。
皆保険制度が導入された1961年の医学部入学定員は2840人。これでは旺盛な民間医療機関の設立に医師の供給が間に合わない。いろんな議論を経た末に1973年、政府の経済社会基本計画の中で「1県1医大構想」が策定され、徐々に医科大学が増加、1984年には医学部定員は8280人にまで膨らんだ。
ただ、医師数の問題は、医療費増加への影響、医師の供給過剰不安が常に付きまとい、1986年には厚生省(当時)の医師需給検討委員会の提言を受けて、10%の入学定員削減方針が出されるなど、2004年には7625人まで減った。その後、救急医療体制や、女性医師のリタイア問題などで医師確保が社会問題化し、定員が少し揺り戻されたのは記憶に新しい。
●診療所が病院に転換
1950年から1980年にかけては、戦後の医療提供体制整備が公的から始まり、直後には民間活力による爆発的なエネルギーで整備されていったことがわかる。セメントも安定的に供給され、資金調達も一定の制度的整備が進み、医師の養成も軌道に乗った。
1961年までの病床数の動向をみると、終戦1年目の1946年には約15万床だったが、1960年には68万7000床となり、ほぼ15年間で4倍以上になった。1961年は71万床を超えており、1960〜1961年の1年間で3万床近くの増床がみえる。
皆保険をはじめとするインセンティブもあるが、それでも国民の受療意欲を満たすものではなかったようだ。ちなみに、1県1医大構想が出された1973年頃には、老人医療費無料化などという、今では考えられない政策も実施されている。
この間の民間医療施設は、戦後すぐは診療所の開設が急速に進んでいる。1945年の診療所は6607施設で、5年後の1950年には4万3827施設と6.6倍となっている。戦時下で医師資格を得た人が、徐々に診療所開設を進めて地域医療をになった姿が想定される。一方、病院も増えてはいる。1945年に645病院だったが、1950年には3408病院で5倍以上の伸び。
しかし、1950年以降の伸び方は病院のほうが高い。1960年の病院数は6094施設で、1950年比で78.8%増であり、この間の診療所数の伸び34.6%を大きく上回る。
こうした数字から推定できるのは、1950年以降、経営力をつけてきた診療所が、病床を整備して病院に転換する動きが活発だったということだ。戦後に生まれた病院の沿革をみると、診療所から出発していることが多いこともこの数字を裏付ける。1950年の医療法人制度のスタート、1960年の医療金融公庫の融資開始という政策の後押しを受けて、旺盛な病院開設ラッシュが続く。
そして、こうした状況を背景に、医療用医薬品市場も拡大していくのだが、皆保険制度とほぼ同時に機能したのが、医薬品流通の金融機能だ。医療提供体制の整備には、前述した制度的インセンティブも働いたが、医療施設の運転資金面では、この金融機能が果たした役割は小さくはなかった。次号は、こうした戦後の医療提供体制整備の展開を踏まえて、医薬品市場が果たした役割をみる。(幸)