(1)渡来人と倭人


 古代、非常に多くの渡来人が日本列島へやって来た。


 縄文晩期の日本列島総人口(縄文人、原住民)は7万〜16万人(最大で26万人説)と推計されている。そして、弥生時代から奈良時代の1000年間に約100万人の渡来人がやってきたと推計されている。奈良時代の総人口が500万〜600万人である。これらの数字から、数学(中学程度)に自信のある方は、原住民(縄文人)系と渡来人(弥生人)系の遺伝子の割合を計算してみてはいかがか。計算すると、90%以上が渡来人(弥生人)系になる。


 遺伝子の次元ではなく、現実的には、早い時期の渡来人(弥生人)は混血され、倭人となっていく。倭人と渡来人の区別は、次の事件で一大意識改革がなされる。475年、高句麗が百済の王都漢山を落とし、百済滅亡の危機となり、かろうじて百済は熊津城へ逃れた。その際、多くの百済人が渡来した。その中には多くの技術者もいたが、現代風に言えば、亡命・難民である。それを、「今来漢人」(いまきのあやひと=新たに来た渡来人)と呼んだ。そして、簡単に言ってしまえば、「今来漢人」以後は渡来人、それ以前はすべて倭人とみなすようになった。ただし、「今来漢人」以前の渡来人の子孫であっても、それを誇りにしている一族も多かったようだ。


 なお、815年に成立した『新撰姓氏録』によると、畿内では1182の氏姓数の28%が渡来系となっている。内訳は、漢系127、百済系140、高句麗系41、新羅系9、任那系9となっている。


 さて、1000年間で100万人が渡来してきたが、その中で最も有名な人物が王仁(わに、ワンイン)である。とりあえず、簡単なプロフィールを……。 


➀生没年は明確ではないが、西暦400年前後に活躍した。


②王仁は、百済から倭へ渡り、初めて文字と儒教をもたらした学者である。


③王仁の子孫である河内の文氏(かわちのふみ氏、「西文氏」とも書く)も学者の家系を誇った。西文氏一族は河内の古市(大阪府羽曳野市)に居住し、代々朝廷の文筆業務に従事するとともに、文字の普及に寄与した。したがって、王仁は河内の文氏の祖であり、同時に「学問の祖」と称されている。 


(2)霊岩(ヨンアム)で誕生・成長


 現在、霊岩はまるで田舎町なので、簡単な地図には記載されていない。演歌『珍島物語』の珍島の北に港町・木浦(モクポ)があり、その東方向に霊岩がある。霊岩には、奇岩・岩壁・絶壁で有名な景勝地、月出山(ウォルチュルサン)がそびえている。


 霊岩には、王仁誕生・成長の物的証拠は何もないらしいが、伝説がたくさん残っていた。たぶん、「そうだろう」ということで、1987年に広大な敷地のなかに「王仁廟」が建設された。


 私は2000年に「王仁廟」を見学した。光州市からフルスピードで走ること2時間、かなり長い桜並木に入った。そこが霊岩の町であった。「王仁→日韓親善→桜並木」という連想が浮かんだ。突然、「天下大将軍・地下女将軍」がズラリと現れた。丸太に男女の人面が彫られ、「天下大将軍・地下女将軍」と書かれた2本セットの柱である。これは、悪霊・悪鬼が村に侵入するのを阻止するための韓国式呪術装置で、男女2本で事足りるはずなのに、なぜだか数十本がズラリと並んでいる。「こりゃ何事だ!」と思ったら、そこが「王仁廟」の入り口であった。どうやら、呪術装置から装飾装置へ任務が変更されたらしい。


「王仁廟」の横に展示館があり、中には壁いっぱいの大きな絵画が並べてあり、それを順々に観賞すると王仁の一代記がわかるという仕かけになっている。


 王仁は、霊岩の地、月出山の麓で誕生し、月出山の中腹にある学校「文山斎」(ムンサンヂェ)で学んだ。ここは全寮制で寄宿舎を「養士斎」(ヤンサヂェ)という。


 当然「霊岩なんて田舎に、そんな教育施設が本当にあったのか?」という疑問も湧く。しかし、新石器時代の支石墓(巨石の墓)が約1000基も発見されている。日本列島の弥生文化の特徴である甕棺、青銅器文化の遺跡も数多く発見されている。また、この地方は洛東江下流地帯(現在の釜山市方面)と同じく稲作の先進地帯であった。さらに、月出山は、いかにも神霊が住んでいるような神々しい山で、古代にあっては宗教(文化)的地帯であったかもしれない。そんなことから、現代では田舎町だが、古代では案外栄えていたかもしれない。


 ともかくも、王仁は「文山斎」で学び、成績はトップであったことであろう。卒業後、百済の都に出て、王宮に仕えた。 


(3)百済と倭の同盟


 王仁が生まれた頃は、霊岩は百済の支配下にあったと推測される。百済の近肖古王(在位346〜374)の治世で、この王は南へ北へと領土を拡大し、百済史上最大の領土を獲得した。すなわち、南は馬韓諸国(霊岩が存在する諸国)を完全制服し、北は高句麗領の南部を占領し、その水軍は遼東半島・山東半島・北九州まで進出した。


 369年、百済と倭は同盟を結んだ。その記念品が、大和の石上神社(奈良県天理市)の秘法「七枝刀」(ななさやのたち)である。これは、実に奇妙な形の刀で、中心の刃から6本の枝の刃が出ている。何らかの呪術的意味もあろうが、重要なことは『日本書記』に谷那(こくな)の鉄山の鉄でつくったと書かれていることだ。谷那の鉄山は、369年の少し前の時期に、百済が高句麗から奪い取った鉄山である。鉄は武器にも農具にもなる超重要物質である。日本国産の鉄による鉄器製造は5世紀後半からで、当時の倭で使用された鉄器は全部輸入である。そして、当時の倭は、洛東江流域の鉄資源に頼っていて、伽耶諸国の交易ルートで倭にもたらされていた。


 今でこそ、黄金の方が鉄よりも高い価値を有するが、古代にあっては黄金は装飾品に使われるだけで、現代ほど価値があったわけではない。青銅器時代から鉄器時代へ急変化の時代、鉄を産出する鉄山は、「アイアンラッシュ」を発生させるほど価値を有した。


 現代的発想をすれば、百済と倭の幹部交渉では、こんな会話がなされたに違いない。


「倭の幹部の皆様、高句麗を完全に追い払えば、谷那の鉄がたくさん獲得できますよ。高句麗を追い払うために、倭も協力してくださいよ。倭は洛東江流域の伽耶諸国から鉄を購入していますが、協力していただけるなら、ごっそりと谷那の鉄を斡旋しますよ」


「本当に、谷那なる地に鉄資源があるのですか? 仮に、あるにしても品質は?」


「さすが、倭の幹部の皆様、よい質問をなさる。これをご覧ください。この七枝刀を。これは谷那の鉄でつくったものです。どうです、6本も枝をつけたって、この頑丈さ。叩いても、ぶつけても、びくともしない。さ、さあ、お手に取って、じっくりご検分を」


 ということで、369年、百済と倭の同盟成立。


 そして、371年、百済と高句麗の大合戦。百済は高句麗の王都平壌城まで進軍して高句麗王の故国原王(在位331〜371年)を戦死させた。


 高句麗は国家存亡の危機に陥った。しかし、その後を継いだ小獣林王(在位371〜384年)は国家を立て直した。百済と高句麗の抗争は一進一退となった。


 百済の参謀は考えた。


——高句麗に完全勝利するために、倭に傭兵を依頼してみようか。


 中国の『三国志』などを読んだ人はわかりやすいと思うが、古代では周辺の異民族を「傭兵」として活用するのは常識である。現代の「戦闘機と戦車を輸入」と変わりはない。


 傭兵依頼に対して、倭からの使者は


「谷那の鉄だけでは傭兵は斡旋できません」


「鉄以外にも何か、ご希望か?」


「さよう、百済の一流技術者、一流文化人を倭へ斡旋していただきたい」


 当時の倭は、応神・仁徳王朝である。応神仁徳王朝は、拠点を大和から河内へ移した。そのため、河内平野中心の土木・建築工事を急いだ。とりわけ仁徳天皇は、宮殿建設、開拓工事、洪水防止の堤防、橋梁建設、道路、港、大規模農地、大陵墓など大々的な土建工事を計画していた。そのため、百済の一流技術者を必要としていた。


 倭は、主たる交易相手を洛東江流域の「ゆるやかな小国連盟」である伽耶諸国に置いていた。伽耶諸国の技術者では、なぜ不足なのか。


 高句麗、百済、新羅は統一国家・中央集権国家である。大土木工事となると、統一国家・中央集権国家の方が、小国の技術よりもレベルが上がるものだ。大手ゼネコンの方が中小企業よりも大土木工事ではレベルが高いのと同じだ。


「倭王」とは何か。当時の倭国は統一国家・中央集権国家ではない。倭国とは、「北九州〜河内・大和」諸国連盟のことで、その諸国連盟の盟主の地位が「倭王」である。当時、倭王の地位は「応神・仁徳王朝」が確保していた。しかし、その直接支配地域は、河内・大和・淡路だけなのだ。


 応神・仁徳王朝は、「百済の一流渡来人を活用」→「大土木工事可能」→「生産力の劇的アップ」→「倭王の権力強化」という基本戦略を描いたのである。


 語句説明ですが、「応神・仁徳王朝」とは……? 倭王(天皇)系譜は、4つに分割して考えるのが、今や基本です。神武王朝(1〜9代)、崇神王朝(1〜14代)、応神・仁徳王朝(15〜25代)、継体(26代〜今日)の4分割です。 


(4)王仁の渡来


 かくして、百済から続々と技術者・文化人が渡来した。


 たとえば、阿直岐(あちき、阿知吉師)もその一人である。『日本書記』『古事記』には、彼は学識に優れている人物であると記されている。しかし、彼の才能は文科系知識だけでなく、実学も有していた。百済王は、阿直岐を派遣するに際して、雄雌の馬を土産として持たせている。つまり、阿直岐は馬の飼育、出産、乗馬技術、馬具、利用法(戦争・輸送・通信など)に長けているのだ。当時、倭には馬の文化はなかった。そもそも馬がいなかったようだ。したがって、馬文化は最先端技術といえる。


 倭が馬文化を本格的に導入するのは、広開土王碑にある「高句麗と百済・倭同盟の戦争」(391〜407)において、倭の傭兵が高句麗騎馬軍団に大敗してからである。この大敗で馬の重要性を骨の髄まで知ったのである。5世紀末の古墳からは馬の埴輪が大量に発掘されているから、約100年で馬の文化は相当普及したようだ。


 聖徳太子(574〜622年)の別名は「厩戸皇子」(うまやどのみこ)であるが、厩戸からイエス・キリストを連想する空想家もいるようだが、連想するなら、「馬=新技術・新文化」であるから、イメージするなら、「IT皇子」「パソコン皇子」であろう。聖徳太子の時代であっても、馬文化は依然として貴重な新技術であったのだ。


 さて、阿直岐は倭王の側近となっていた。ある日、倭王は阿直岐に尋ねた。


「百済の国には、あなたよりも優れた賢人がいますか」


 倭王は阿直岐がもたらした新技術・新知識に驚き、感謝している。阿直岐よりも優れている人物はいないであろう、と思っていた。ところが、返事は


「もちろん、います」


「本当ですか」


「王仁なる人物は、私よりも優れています。百済でトップの学者です」



 ということで、倭王は百済の都へ使者を送る。


 百済の阿莘王(392〜405)は、倭王の申し出を快諾する。百済王の命令が王仁に下る。王仁は、都からいったん故郷の霊岩へ帰った。そして、親戚・友人・弟子と別れを告げる。


「再び、霊岩の土を踏むことはないでしょう。私の全知識は、倭の人々にささげる」


 見送る者も涙、出発する者も涙……。


 霊岩の「王仁廟」では、毎年、桜が満開の頃、「王仁文化祝祭」が開催される。そのイベントのひとつに「王仁博士渡日行列」が行われる。桜並木の下を古代船の山車を、百済装束の少年少女が、王仁が船出した上帯浦(サンデポ)まで約1.5キロメートルを引っ張るパレードである。


 さて、王仁が渡来した年であるが、いくつかの説がある。『日本書記』には「応神16年」とあり、これを単純に西暦に直すと「西暦285年」になる。これに、十干十二支の1サイクルである60年の2倍の120年を足し算して「西暦405年」とする説が普通であるようだ。なお、「西暦378年」説も有力である。


 それでは、「西暦405年」とは、どんな年か。先に述べたように、「高句麗と百済・倭同盟の戦争」(391〜407)の真っ最中である。百済としては、倭との同盟強化が必要な時期である。そして、倭王は仁徳天皇(推定生没337〜419年、推定在位394〜419年)の時代である。大土木工事、大建築事業を展開した時代である。倭としては百済の一流技術者を欲した時代である。


 そんな時代背景を受けて、王仁は、『論語』10巻、『千字文』1巻、合計11巻を持って渡来した。このことをもって、「わが国へ儒教と文字を初めてもたらした」とする。


 当時の文化人は、文科系学識だけでなく、実学を有していた。そうでなければ、百済トップと言われるはずがない。王仁の実学における功績は記録がないのでわからない。 


(5)倭語の文字化


 わかりきった話だが、漢字そのものはずっと古くから倭に伝わっていた。しかし、それらは、「中国語としての漢字」「飾りとしての漢字」である。王仁が「文字をもたらした」とは、「倭語を文字で書き表せるようにした」という意味である。言語はどの人類も持っている。その言語を文字で書き表せるかどうか、それが可能になって文化は飛躍的に発展する。倭語には、文字がなかった。「話す・聞く」だけであった。王仁によって、倭語は「書く」ことが可能になった。


 さて、ひとつの疑問が提起された。それは『千字文』のことである。『千字文』とは、千字の日常漢字からなる、いわば「漢字の教科書」である。日本では、江戸時代までは、仮名の教科書は『いろは歌』、漢字の教科書は『千字文』であった。『千字文』は、「天地玄黄、……」(あめつちはくろくきいろく、)で始まるので、漢字を知らない人は「天地も知らない人」とバカにされた。今でも知られている「川流不息」(かわながれてやまず)や「夫唱婦随」は、『千字文』の中にある。


 疑問というのは、『千字文』がつくられたのは、6世紀の中国南朝であるから、王仁が持ってくるのは不可能である、というもの。それは、その通りだが、『千字文』以前にも、それと似たような「漢字の教科書」はいろいろあったから、『日本書記』の編纂者が間違えたのだろう。


 それから、勘違いしている人が多いのだが、「漢字の教科書」を持って来たことが「文字をもたらした」ことではない。本を持ってくるだけなら、簡単だ。馬を持ってくる方がよほど大変だ。


 日本最古の漢詩集『懐風藻』(751年完成)の序では、文字を伝えた王仁の功績をたたえている。要約すると、


 王仁は倭語の特質を損なうことなく、漢字を用いて倭語を表現する方法を開発した。王仁は2つの原則でそれをなした。原則の第1は、倭語のアメ・ツチ・ヒ・ツキ……という単語に最もふさわしい漢字(天・地・日・月……)を探し出して当てはめる。原則の第2は、倭語で適当な漢字がない場合は漢字の一字一音を仮(かり)て、仮名書きにすることである。


 そんなことが、『懐風藻』の序に書いてある。


 王仁の努力によって、倭語の文字化が成功した。王仁は倭人よりも、深く倭語の特質・構造を理解していたのだ。だから、成功したのだ。


 どれほど深く倭語を理解していたかは、『古今和歌集』(905年)の「序」を読めばわかる。その中に王仁の和歌が掲載されている。 


 難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花


 この歌一首で、王仁の倭語への深い理解力がわかるというものだ。なお、紀貫之は「序」の中で、王仁を「和歌の父」とたたえている。この和歌については、次の段で再説明します。 


(6)儒教を初めてもたらす


 倭国への儒教の浸透・普及という点に焦点を当てれば、6世紀前半に百済から渡来した五経博士の方が意義が大きい。しかし、「初めて」に力点を置けば、王仁であろう。


 王仁は渡来するや、仁徳天皇の王室顧問・側近になったと思われる。倭語の文字化という作業と同時に、仁徳天皇に儒教を教えたようだ。その結果、『日本書記』にある「聖帝仁徳天皇物語」となったのであろう。戦前は、教科書に載っていたので、知らない人はゼロであった。今は、どうかなぁ〜。


 仁徳天皇は難波に簡単な王宮を建設した。高台から国中を眺めると煙が立っていない。天皇は「人民が貧しくて炊事もできないようだ」とおっしゃって、3年間、租税と労役を免除した。そのため王宮はボロボロの雨漏りだらけ。


 3年後、再び高台から眺めると、たくさんの煙が立っている。天皇は皇后に「私はすでに富んだ。もう心配ない」とおっしゃった。皇后は「富んだとは何のことでしょうか?」と尋ねられた。


「煙が国中に立っている。人民は富んでいるに違いがない」


「王宮はボロボロの雨漏りだらけ。衣服も寝床もズブ濡れ。どうして『私はすでに富んだ』と言えましょうか?」


「君主は人民のためにある。人民が貧しいのは私が貧しいことであり、人民が富むのは私が富むことである。人民が富んで君主が貧しいことはあり得ない」


 各地から王宮修理の申し出があったが、天皇は許さなかった。


 さらに、3年間、租税と労役を免除した。王宮は完全にボロボロのおんぼろ。


 追加の3年が過ぎ、天皇は王宮の再建に着手した。人民は催促されないのに、われ先に、材木を担ぎ、土を運び、昼夜を問わず工事に取り組んだ。そのため、王宮は極めて短期間で完成した。


 まさに典型的な「儒教的名君」物語である。 


 前述した「難波津に……」の歌の背景も、完璧に儒教的名君である。


 応神天皇は長男の仁徳よりも末子の皇子を可愛がった。応神と仁徳の父子は、天下の美女、髪長姫(かみながひめ)をめぐる「恋の戦争」があり、不仲であった。そんなことで、応神は末子を皇太子にした。しかし、その直後に応神が崩御。末子は「長男が継ぐべきだ」、長男の仁徳は「父の意思を大切に」と譲り合ったという。「譲り合い」「長幼の順」といった典型的な儒教エピソードである。


 そして、『古今和歌集』の「序」には、その時、王仁が仁徳に詠んだ歌が「難波津に……」の歌であると記されている。要するに、「いつまでも遠慮しないで、そろそろ皇位に就いたらいかがですか」というわけである。和歌とは表面的な美しい意味だけではなく、隠された(深い)意味があるのがベストの歌なのである。「難波津に……」の歌は、みごとに表の意味の中に隠された(深い)意味を忍ばせている。それで、紀貫之は王仁を「和歌の父」とたたえたのだ。


 さて、この2つの美談物語の信憑性は、何とも言えない。


「難波津に……」の歌の事件では、末子は結局自殺であって血なまぐさい。さらに、仁徳天皇を巡る血なまぐさい事件は、他にも複数ある。


 人民の貧しさは、海外まで出兵して大敗北の影響だろう。


 そもそも、応神と仁徳とは同一人物という説も有力なので、何が何だかわからない。


 さらに、「仁徳」なる名前自体が儒教そのもので、8世紀になって付けられてものであるから、後付けの感じを免れない。


 何にしても、記紀には、露骨に儒教そのもの天皇が出現したわけで、「王仁⇔儒教⇔仁徳天皇」という関係があったものと推測するのみである。 


(7)王仁の子孫


 王仁が仕えた応神・仁徳王朝は、河内国が中心であった。必然的に、王仁の子孫も河内国を本拠地とした。子孫は「河内の文氏」(かわちのふみうじ、「西文氏」とも書く)として、文書・外交・軍事・交通など多くの分野で活躍した。


 しかし、朝鮮半島から、続々と大勢の文化人・技術者が渡来してきたので、「河内の文氏」が独占的に優遇されることはなかった。新しく「大和の文氏」、「船氏」が登場して、「河内の文氏」の優位性は低下していく。10世紀になっても、名門の博士・学者の家柄として認知されているが、時代が下るとともに、王仁とその功績の記憶は薄らいでいった。


 現在、大阪市枚方市に「伝王仁墓」があり、大阪市の史跡になっている。そこでは、毎年、「王仁祭」が行われている。


 また、東京・上野公園に「王仁碑」が昭和初期に建てられた。


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。