(1)変化する評価


 私は戦後生まれだが、小学生の頃、漫画で山田長政を読んだ記憶がある。日本刀を振りかざす甲冑の武者姿、それが馬ではなくて象に乗っている。不思議なコントラスであったためか、今でも、その絵を記憶している。


 しかし、昨今の漫画では全然登場していないようだ。漫画にしたら面白いストーリーになると思うのだが……。


 戦前は国策として、山田長政は「南進先駆者」として官製ブームがつくられた。小説や研究書だけでなく、東海林太郎の「山田長政」もレコード化された。修身の教科書にも登場した。


「かの国の高位高官に任じられて、日本の武名を、南方の天地にとどろかしました。外国へ行った日本人で、長政ほど高い地位にのぼり、日本人のため気をはいた人は、ほかにないといってよいでせう」


 山田長政の出身地とされた静岡市の大浜海岸公園には、甲冑姿の長政が象にまたがり太平洋をキリッとみつめるコンクリート像が造られたのだが、進駐軍が静岡市へ進駐する前夜、誰の命令なのかミステリーであるが、取り壊されてしまった。時の権力者におもねる自己規制のなせる業に違いない。


 確かに戦前では、山田長政は「南進先駆者」つまり「侵略者の先駆者」の役を担わされていた。しかし、時代が推移するにしたがって、山田長政の評価も変化し、昭和35年には、長谷川一夫、市川雷蔵が主演の日タイ合作映画『玉田長政、王者の剣』が上映された。どんな内容なのか、近所のレンタルビデオ店で探してみたが、その店にはなかった。


 山田長政を顕彰しようとする運動で目立ったものは、講談・浪曲で超有名になった清水次郎長の動きである。


「駿河の人だって、シャム(タイ)で大活躍して王様になったんだって、こいつはひとつ、銅像を建てて……」


 と素朴に思ったらしく、銅像建立のため外務大臣榎本武揚に陳情したり、建立資金調達の大相撲興行をしたりしたが、結局は実現しなかった。


 ところが、なぜだか、やくざの清水次郎長の銅像は昭和初期に建てられた。そして、先に述べたように、東南アジア侵略の国策に応じて、コンクリートの像が造られた。


 大正時代から山田長政が活躍したアユタヤの日本人町の発掘調査が開始された。戦後も日タイ友好親善を基調に発掘作業が実施され、『アユタヤ日本人町跡と山田長政』と題する顕彰碑が建てられた。


 山田長政の評価は、


➀素朴に外国で大活躍


②南進先駆者


③日タイ親善のシンボル


 と変化してきたわけだが、またまた新しい評価が生まれるかもしれない。まぁ、現状は「風化」が進行中であるが、時代の変化によって、新しい山田長政の評価が生まれるかもしれない。 


(2)東南アジアの日本人町


 戦国時代末期から鎖国までの間、日本はいわば大航海時代であった。海外貿易は最大の利潤をもたらす事業であった。一攫千金の夢を求めて、中国、台湾、東南アジアへと日本商船は航海し、必然的に貿易拠点に日本人が移り住んだ。当時に人にすれば、たとえば、関東人が鹿児島へ行くのもルソン島へ行くのも、同じような「他国」感覚であったのかもしれない。


 それから、戦国時代終焉によって膨大な浪人が発生したこと、切支丹弾圧、そうしたことから生きる道を海外へ求めた人も非常に多かった。さらに、人身売買が普通だったから、事実上の奴隷として連れていかれた人も大勢いた。


 そんな、あれやこれやで、東南アジア各地には日本人町が形成された。ベトナム中部のフェフとツーラン、カンボジアのプノンペンとピニヤール、ルソン島のサン・ミゲル(マニラの城外)、シャムのアユタヤ、ビルマのアラカンに日本人町が建設された。


 その最盛期には、ルソン島のサン・ミゲルに約3000人、シャムのアヤタヤには1500〜3000人、他は300〜500人の日本人が住んだ。日本人町と言っても、現地の人も住んでいたので、町としては、その数倍の規模になろう。


 どの町も、だいたい治外法権を認められた自治制で、在住日本人の最有力者が頭領として統括していた。 


(3)プロの殺し屋集団


 山田長政(1590〜1630)の生国は明確ではないが、最有力は駿府(現在の静岡市葵区)で、親の家業は紺屋であったらしい。家業を継ぐ気はさらさらなく、武士となって立身出世を夢見る若者であった。一攫千金、山師的感覚の性格と言える。最初は、沼津で大久保治右衛門(大久保彦左衛門の兄)の六尺となった。「六尺」とは、「かごかき」で、一応、武士のはしくれ。しかし、関ヶ原の合戦終了後の時代である。手柄を立てる合戦がない。しかたなく駿府に帰ると、駿府は日本の中心のような町となっていた。すなわち、1607年、徳川家康の隠居城・駿府城の天下普請が開始されていた。全国の大名から、人夫・材木・石材が駿府に運び込まれ、それを目の当たりにすれば、合戦なき徳川時代の確立は明白であった。もはや、武士となって合戦で手柄を立てて立身出世は時代遅れと悟ったのであろう。


 そして、駿府には、海外情報もあふれていた。


 若き山田長政は、夢を海外へ求めて、駿府の豪商の船に乗り(たぶん密航)、堺、長崎、台湾を経てシャム(タイ)の王都アユタヤへ入る。その時期は、1610年とも12年とも言われる。いずれにしても、21〜23歳である。


 アヤタヤはバンコクからメナム川上流90キロの地でアユタヤ王朝の王都である。その人口は15万人といわれ、当時の江戸やロンドンと肩を並べる大都市である。アユタヤの繁栄は貿易によることが大きく、日本人町、中国人町、オランダ人町、ポルトガル人町、マレー人町、ペグー人(当時のビルマを支配していた人種)町などが形成されていて、最盛期には40ヵ国の人が住む国際都市である。


 アヤタヤの日本人は普段は貿易商を営んでいたが、王宮に事件が発生すると傭兵部隊として行動していた。戦国時代を体験した多数の浪人武士を含む日本人は、いわば戦闘ノウハウを身につけている最強軍団に即時に変身するのであった。


 なぜ、日本人軍団が最強軍団に成り得たかは、ひとつには、戦国時代の体験であるが、もうひとつはシャムなどの東南アジアの仏教国では、殺生戒のため、合戦といえども、どうも「殺戮の数」よりも「捕虜の数」を重んじる傾向が濃厚なのだ。敵といえども、殺すことに躊躇するのである。その点、関ヶ原の合戦などで敗退し、残党狩りを逃れた浪人武士は、「合戦とは殺戮」と骨身にしみこんでいる。いわば、「プロの殺し屋集団」なのである。 


(4)ソンタム王の信頼と恐れ


 山田長政がアユタヤへ到着した時の日本人町の頭領は、オープラ純広(すみひろ)である。オープラとはシャムの官位である。シャムの官位は基本的に6階級あり、オープラが第2階級の地位に当たる。だから、日本人町はすでに相当の実力を持っていたと言える。オープラ純広は、山陰の因幡の大名である亀井氏と緊密な関係を有している商人武士である。


 亀井氏は尼子氏の重臣だったが、豊臣秀吉に取り立てられて因幡の小大名になったが、貿易が莫大な利益をもたらすことを熟知していた「貿易商的大名」であった。亀井氏が実行した貿易とそれをさらに大々的に発展させようとする貿易ビッグプランは、目を見張るものがあるが、それは省略。


 山田長政は、「織田信長の末裔」とか、「沼津藩主・大久保の家臣で徳川家にコネがある」とか、要するにハッタリをかませて、アヤタヤの頭領オープラ純広の下で働くことになった。


➀ソンタムの王位継承内紛


 どこの国の王朝でも、王位継承をめぐって内紛が起きるものである。古事記・日本書記を読めば、皇位継承は必ずと言ってよいほど血の雨が降る。アユタヤ朝も同類で、王位をめぐって内紛が日常茶飯事である。


 1610年、ソンタムの王位継承に際しても内紛が発生した。オープラ純広以下の日本人傭兵軍団の行動は、親ソンタム派なのか、非ソンタム派なのか、ハッキリしないが、内紛の終結時には、日本人町はメナム川の水上警備や船舶の関所の管理権を獲得している。日本人傭兵軍団の武力の成果であることは間違いないであろう。蛇足ながら、日本人町は、外国人町の中では、武力だけでなく、最大の経済力も有していた。


 なお、山田長政自身は、この内紛の時、アユタヤに到着していたか不明で、仮に到着していたとしても、一兵卒に過ぎなかったろう。


②シャム・ビルマ戦争


 オープラ純広は、亀井の帰国命令によりシャムを離れる。理由は、豊臣家の大阪城攻略に必要な最新型大砲の知識を亀井・徳川へ直接伝授するためである。後任の日本人町頭領は、長崎出身の津田又衛門が就任した。


 津田が頭領の時、シャムとビルマの戦争が始まった。両国は永年の敵対関係にあった。ビルマ軍にポルトガルが支援に加わったため、シャム軍は劣勢となり、ソンタム王は日本人町に援軍を求めた。その結果、シャム・日本人町連合軍は、ビルマ・ポルトガル連合軍を打ち破った。頭領の津田は、上級官位と同時に王の妹を賜った。長政も活躍したらしく、下級ながら官位を賜った。


③日本人町の頭領となる


 おそらく、山田長政は、純広、津田という歴代の頭領から目をかけられ、側近として働いたようだ。「織田信長の末裔」「徳川家とコネがある」というハッタリやホラ話がきいたのかどうかはわからないが、それなりの才能があったことに間違いない。ハッタリやホラだけで、海千山千の頭領の信頼を得ることはできないだろう。


 山田長政は、一般シャム人の使用するタイ語のみならず、宮中語にも堪能になった。毒蛇からソンタム王を救出した逸話(真偽不明)があるくらいだから、長政と王は極めて親密になっていった。


 長政はシャム王室から水上警備を委託された。そのことと、貿易の安全確保のため大型軍船の建造を構想した。それは、日本人軍団の戦闘能力の飛躍的向上も意味していた。長政の提案を、津田は採用し、大型軍船の建造に着手した。


 その頃、日本人町の頭領は、津田から城井久右衛門に交代された。

 大型軍船の完成と同時に、津田と城井は帰国することになった。そして、津田・城井の推薦によって、1620年、長政は日本人町の頭領となる。シャムへ渡って約10年、30歳の時である。

 同年、ソンタム王は将軍秀忠へ使者を派遣する。長政の家来も随行し、老中へ手紙と献上品を渡す。幕閣は、正式に山田長政の存在を認識することとなった。このことは、幕府の外交文書によって知られている。長政のことは「大久保治右衛門の六尺、シャムへ渡り、今はシャムの仕置を致す」などと書かれてあって、幕閣は長政の素性を正確に掌握していた。


④スペイン艦隊を撃破


 山田長政が提案し、日本人町が建造した大型軍船は、艦首に巨砲2門、舷側に大砲8門を有する。それが活躍する出番が到来した。


 1621年、5隻のスペイン艦隊がメナム川をさかのぼり、略奪を繰り返したのである。長政率いる日本人軍団はスペイン艦隊を一夜にして5隻とも撃沈した。スペイン艦隊の略奪を傍観するしかなかったシャム王室にとって、まさに神業的武功であった。


 さらに、1624年、再びスペイン艦隊が略奪を開始すると、これも見事に撃退した。


 かくして、山田長政は日本人部隊を背景に大手柄をたて、出世街道をばく進し、ついには、「大臣兼最強軍団司令官」となり、王の側近実力者のひとりとなった。


 むろん、本業の貿易商人として活動していたことは説明するまでもない。日本人町が扱う貿易量はオランダ商館やポルトガル商館の約10倍あったと推計されている。だからこそ、大型軍船の建造も可能だったし、シャム王室へ莫大な献金もなすことができた。そんなことから、ソンタム王の長政への信頼は一層深まった。


 なお、長政は大型軍船の絵馬を駿府浅間神社へ奉納している。自分の大出世を故郷に大いに自慢するために奉納したのであろう。いわば、故郷に錦を飾ったのである。


⑤シャム・カンボジア戦争


 1622年のことである。


 当時、カンボジアはシャムの属国であったが、カンボジアの独立戦争が勃発した。カンボジアはプノンペンの日本人部隊(小西行長の遺臣を多数含む)を傭兵として起用した。この時は、どうやら事前に、プノンペン日本人町とアヤタヤ日本人町(頭領・山田長政)の間に、「日本人町同士の戦闘は避けよう」という密約があったらしい。だから、ソンタム王の出陣要請に対して、長政は拒否した。


 ソンタム王が率いるシャム軍はカンボジアへ進軍したが、鬼人のごとく平然と殺人を行うプノンペン日本人部隊のため完敗を喫する。ソンタム王は、改めて日本人軍団を見直し、ますます長政を重んじた。


 ソンタム王は合戦敗退の直後に、日本へ使者を派遣し、「カンボジアの日本人がシャムとの戦争に参加しないように将軍の命令を出してほしい」と要請している。幕府は快諾したが、そんなものは、関ヶ原の合戦、大坂の陣の残党たる反徳川の武士を抱えるプノンペン日本人部隊には、なんの効果もない。


 カンボジアは独立戦争のため、平気で殺人をできる日本人武士をひとりでも多く欲していた。だから、プノンペンにも山田長政と同じように活躍した日本人武士がいたはずなのだが、その人物像がハッキリしない。その人物が発見されれば、これまた面白い物語となるのだが……。


 とにかく、ソンタム王の幕府への要請からもわかるように、ソンタム王およびシャム政府の高官は日本人部隊の戦闘能力(殺人能力)に恐れを抱いていたに違いない。山田長政(日本人)への信頼と恐れが入り混じった心理状況だったと思う。 


(5)リゴール王となる 


➀長子派と弟派の内乱


 山田長政の悲運・悲劇は、1628年12月、ソンタム王が突然倒れたことに発する。アユタヤ王朝恒例の王位継承の内紛が、ソンタム王の長子派とソンタム王の弟派の間で展開された。


 シャムの慣習では弟がいる場合は弟が王位を継承するのだが、病床のソンタム王は我が子可愛さで長子を望んだ。長政は日本・中国では長子相続が法であるとして、ソンタム王の望む長子擁立に加担することになった。


 王宮で日本人軍団が大挙武装している中、長子の載冠式を強行した。要するに、長政はクーデターの中枢に位置したのだ。「単純に腕力をふるって出世」することと「政治の中枢での暗闘」とは、質が大きく異なる。長政は、その区別がわかっていなかったのだろうと思う。


 長子推進派のボスはカラホム(これは官職名であるが、便宜的に使用)で、ソンタム王の一族である。彼は若い頃、喧嘩で王の護衛官を殺害して投獄されたり、王の親族のひとりを暗殺する計画を企てて投獄されたり、さらには、ソンタム王の侍妾を誘惑して死刑宣告を受けたたりしたトンデモナイ経歴の持ち主である。何回も悪事が発覚して死刑寸前になりながらも、画策・謀議によって助命され、それどころか、そんなハンディにもかかわらず宮内庁長官にまで出世した男である。並々ならぬ権謀術数の持ち主だ。


 カラホムは長政の助力を得てクーデターを成功させると、一気に弟派高官の大粛清を決行した。弟は逮捕され死の寸前のところを脱出して、挙兵する。弟は優秀で人望も高かった。弟軍は優勢で長子軍は悪戦苦闘。しかし、長子軍は長政の日本人軍団の援軍で勝利し、弟は死刑になった。ここまででも、かなり血生臭い陰湿な粛清劇であるが、内紛がここで終結すれば、長政の悲劇はなかった。


②長子(新王)殺害


 新王は15歳の苦労知らずのバカ殿様で、カラホムは摂政に就任する。カラホムはバカ殿様を一層のバカ殿様に仕立て上げ、王宮世論が新王から離反させることに成功する。


 カラホムは新王の軍司令官カバイン(王族のひとり)を「次期、王に」と誘惑して味方に引き込み、王宮を占拠して新王を処刑してしまう。そして、カラホムは今度はカバインを謀反罪で処刑した。


 カラホムは、最初から王位を狙っていたのである。


 長政はソンタム王に恩義を感じ、その長子(新王)のために忠誠を尽くしていたのだから、なんともやりきれない気持ちであったろう。


 カラホムと長政の談合の結果、ソンタム王の次男10歳が王位を継ぐことになった。10歳の幼王に忠誠を表明する実力者は長政ひとりである。長政さえいなければ、カラホムの王権奪取は完成する段階に至った。


③長政、リゴール王に


 カラホムは長政をアユタヤから遠く離れたリゴール(六昆)へ飛ばすことに決意した。リゴールはマレー半島中部で、現在はナコンシータムマトラという。リゴールでは住民が2派に分かれて内戦状態。さらに、南のパタニ軍(回教軍)が侵攻しようとしている。リゴールへ追いやれば、当分の間はアユタヤへ帰れない、と考えたのだ。


 リゴール長官任命式に際して、幼王は金の冠を長政に授けた。これは異例のことで、リゴール長官兼リゴール王の意味を有していた。なんとしても、長政をリゴールという辺境の地へ飛ばしたいカラホムの策謀、すなわち、長政の心情(ソンタム王への恩義とその子への忠義)を利用した王命という名の策謀であった。しかも、リゴール王という破格の命令である。長政にとっては拒否できるものではなかった。 


(6)毒殺される


 長政がリゴールへ出発するや、カラホムは幼王を処刑し、自分が王(プラサート王)となる。幼王の在位はわずか38日間であった。


 長政は、リゴールに到着するや、またたく間に内戦を平定した。そして、南のパタニ軍(回教軍)7万人と長政軍5万人(日本人部隊4000人、アユタヤからのシャム軍6000人、リゴールの現地軍4万人)の大激戦が、水陸で7日7晩続く。陸上戦で最大激戦が行われた平原は、今でも現地では「戦場」と呼ばれているという。


 長政軍は大勝利を収めたが、長政も足に矢傷を受ける。長政はすぐにもアユタヤへ凱旋し、幼王死去を詰問したいが、傷のため動けなかった。


 カラホムことプラサート王は、リゴール問題が短期間で解決するとは露ほどにも思っていなかったので、びっくり仰天。長政が軍を率いてアユタヤに進軍されては大変だ。


 策謀家の策謀は尽きることがない。


 カラホム(プラサート王)は、リゴール内戦終結とパタニ軍撃破の功績に対して、リゴールの長政へ莫大な恩賞と数名の美女を贈った。贈られた美女から妻を選ぶのが風習であったようだ。その美女のひとりは、カラホムの妹と称していた。事実は、長政暗殺の密命を帯びた刺客。ところが、この美女は、長政に惚れてしまって白状してしまう。映画ならば、ここらが男長政とヒロインの愛のクライマックス・シーン。


 長政としては、暗殺者を発見してヤレ一安心。めでたく、長政と美女の婚礼の式典となった。しかし、実は、侍女の中に本命の暗殺者がいたのだ。それで、毒殺成功。


 謀略家というのは、二重三重の仕掛けをするものだ。


 1630年8月末日、40歳であった。 


(7)日本人、その後の運命


➀長政の息子オクン


 リゴール王の地位は、長政の息子オクンが継いだ。しかし、元リゴール長官の策謀で、日本人とリゴール人の戦争となる。


 オクンはリゴール人を大虐殺し、町の大半を焼き払った。リゴールの住民の間では、今でも長政およびオクンの恐怖政治が民謡として歌いつがれているという。


 リゴールは無人の焦土となったため、オクンら日本人軍団は定住できず、カンボジアのプノンペンへ行くことになった。前述したように、カンボジアはシャムからの独立戦争のため日本人軍団大歓迎なのだ。


 かつてソンタム軍がカンボジア攻撃をした時、長政が加担しなかったこともあって、カンボジア王はオクンをリゴール王として遇した。


 カンボジア軍は、プノンペン日本人部隊とオクン軍団を加えて、シャムへ攻め込んだ。オクンは父の復讐戦であるとして、率先参陣した。ところが、プラサート王(カラホム)は、あっさりとカンボジアの完全独立を認めてしまった。その結果、カンボジア軍のアユタヤ攻撃は中止され、オクンの復讐は実現できなかった。


 カンボジアは完全独立を果たしたが、カンボジアでも王位継承の紛争が勃発し、そこでオクンは戦死した。


②アヤタヤの日本人町は


 プラサート王はアヤタヤの日本人町を焼き払った。日本人の多くはカンボジアのプノンペンへ逃れた。カンボジアでは、国王が門前に迎え出たというぐらいに歓迎された。反シャムの日本人大歓迎なのだ。


 数年後、プラサート王のシャムでは、新たにオランダ問題が焦点となった。オランダがシャムの一部地方の独立をバックアップする気配が出たのである。


 1633年、プラサート王は貿易面でオランダを牽制するためアユタヤ日本人町の復興を許可した。とはいっても、全盛時の日本人町3000人の十分の一程度だった。ちょうど、1633年は、徳川幕府の第1次鎖国令の年にあたる。それでも、日本人はシャムとオランダの仲介業者として、活発に商売をしていた。


 1656年、プラサート王が死んだが、恒例の王位継承の内紛が発生した。その中で、「オランダ人と日本人が王宮を占拠しようとしている」という流言が流れたから、まだまだ日本人町の実力はあったようだ。


 しかし、新しく日本人が流入しないから、アヤタヤ日本人町は漸次衰退し、18世紀初頭には消滅した。


③ギヨマー夫人


 鎖国政策によって海外に置き去りになった日本人では、「あら日本恋しや、ゆかしや見たや見たや」のジャガタラお春が有名である。


 アユタヤの日系人の中では、ギリシャ人ファルコンの妻になった在シャム2世のギヨマー夫人の生涯が目立っている。ファルコンはシャムの宰相にまでなったが、政争の結果、処刑された。


 しかし、その後、ギヨマー夫人はアユタヤ・キリスト教神学校を再建して、多くの子女教育にあたり、王宮の信頼を獲得し王宮の女宮頭となり、聖女マリアのように慕われた。


④ミャンマー(ビルマ)へ


 なお、オクンのリゴール撤退の際、62人の日本人武士団がミャンマー(ビルマ)のケントン州ゴン・シャン族の村へ落ち延び、その地で結婚し平和に暮らし、同化していったという伝説がある。20年程前テレビで、村の古老が、その伝説を話していた。


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。