「冷戦」という言葉で脳裏に浮かぶイメージは、屏風絵のような1枚の合戦図だ。朝鮮戦争やキューバ危機、ベトナム戦争など、“画面中央”でさまざまな戦争や危機的状況が生まれる中、それぞれの背後に、米国と旧ソ連という2大超大国が本陣を構え、にらみ合っている。総大将の手元にはそれぞれ、核兵器の発射ボタンがある。


 結局のところ、総大将同士の直接体験に至ることはなく、日本のぬるま湯的日常では、穏やかな“平時”に思われたあの時代だが、改めて世界規模の膨大な犠牲者や怨念の総体を見渡すと、あの約40年間はやはり、壮大なスケールの世界大戦期に他ならなかったことに否応なく気づく。


 フランスでのイスラム国テロやシリア難民の大移動といった昨今の出来事も、狂信的イスラム原理主義と欧米列強との間で、今後延々と繰り広げられてゆく巨大な戦争のワンシーンに思える。もし仮に、欧米の軍事力によってイスラム国を壊滅できたとしても、あくまでもそれは、世界的な大戦争の序章にすぎないのではないのかと。


 パリの街を恐怖に陥れた“13日の金曜日”から2週間。今週の文春や新潮はそろってイスラム国問題の特集を組んでいる。


 対話による解決はもちろん見込めない相手である。だが、軍事的な制圧も最終的な解決にはならず、第二、第三のテロ組織が次々と生まれてくることも、すでに大方の人々は気づいている。そんなゴールのない“〝テロとの戦い”へのやるせない思いが、週刊誌特集の行間にもどこか滲んでいる。


 今回、両誌が共通して取り上げているのが、報道ステーションの古館伊知郎キャスターによる「有志連合の誤爆による犠牲も、反対側から見ればテロ」という番組上の発言である。両誌はもちろんこれを叩いている。


 しかし、「テロ」という言葉の選択は不適切だったかもしれないが、言わんとすることは、「憎悪と報復の連鎖」という当たり前の指摘でしかない。空爆がダメならどうすればいいのか、きれいごとを言うな、といった感情で批判されているわけだが、古館氏にしたところで、対話をして解決できる問題とは思っていないだろう。極端に楽観的だったり好戦的だったりする人を除けば、ほとんどの人が共有する無力感や絶望感を表した言葉だったように、私には感じられる。


 実際、《気は確かか?》と辛辣に氏を叩いた文春でも、別の記事においては、テロで妻を失ったフランス人映画ジャーナリストがフェイスブックに綴った気高いメッセージに、心を動かされたことを素直に明かしている。


 記事によれば、この男性はテロリストに向けて《君たちに憎しみという贈り物はあげない》と書き、自らの息子に《普段と同じようにお菓子を食べ、私たちは一緒に遊ぶ。幸せで自由に生きる》、そんな生き方をさせる決意を示している。ISのテロリストのように憎しみで心を埋め尽くした人間には育てない、という宣言である。


 冷戦期と入れ替わる形で対イスラム原理主義戦争の時代に突入し、結局のところ、私たち一人ひとりはただ、巨大な歴史的潮流になすすべもなく、一生を終えてゆく可能性が強い。実際、とめどない歴史の奔流に個々人は無力だが、ただひとつ、流れの外側に自分の心を置こうとする努力だけはできる。さまざまなニュースで見るパリ市民のコメントには、そんなニュアンスの言葉が時折入り混じっている。そんなコメントと出会ったとき、かの文化の国ならではの知性の健在を改めて感じ取り、私は尊敬と羨望の念を抱くのである。

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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。1998年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。2007年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って」(ともに東海教育研究所刊)など。