画期的な新薬は病気が克服されると、薬があることが当たり前の状態になってしまう。一世を風靡した薬でも、登場した頃の衝撃や感動は、時間が経つにつれて忘れ去られてしまうものだ。だが、開発当時の時代背景や技術水準を考えながら、その時代に思いをはせると、苦闘を続けた開発者の物語が浮かび上がってくる。


『世界史を変えた薬』は「ビタミンC」「モルヒネ」「ペニシリン」……といった10種のよく知られた薬の誕生秘話を扱った1冊。著者は、医薬品メーカーの研究職を経験したサイエンスライターだけに開発のストーリーを丹念に追うが、タイトルどおり、病気や薬に関連する世界史の秘話もふんだんにちりばめられている。


 たとえばマラリア。本書によれば、〈今までに生まれた人類の半数はマラリアで亡くなっているという研究者もいるほどだ〉が、ツタンカーメン王、アレクサンダー大王、詩人のダンテ、平清盛、一休宗純(アニメ『一休さん』のモデルといったほうがわかりやすいか……)などもマラリアが死因という説があるという。当時、特効薬があったら、世界はどう変わったのだろうか。


 思想家・大川周明が第2次世界大戦後の〈東京裁判の法廷で東条英機の頭を後ろからはたくという奇行を演じた〉のはよく知られているが、〈梅毒による精神異常〉だったとか。


 今でこそ、さまざまな薬の探索方法や化学合成の技術、臨床試験の方法が確立しているが、昔の研究者は苦労の連続だったようだ。


「20世紀最大の発明」とも言われる世界初の抗生物質「ペニシリン」は1928年の発見から1940年に精製に成功するまでに10年以上の年月がかかっている。


 江戸時代の医師・華岡青洲は、確実な記録があるものとしては世界初という全身麻酔下での乳がん摘出手術に成功したが、麻酔薬の実験台となった母は中毒死し、妻は失明している(『華岡青洲の妻』(有吉佐和子著)で読んだ人も多いだろう)。 


■“手洗い”励行は19世紀半ばから


 現代につながるような医療の常識や医薬品の開発方法ができたのは、思いのほか近代になってからだったようだ。


 史上初の臨床試験は1747年。英国海軍医のジェームズ・リンドが壊血病(ビタミンCの不足で、出血性の障害生じる病気)にオレンジやレモンなどの柑橘類が効くことを、12人の患者を2人ずつ6組にグループ分けし、食事の与え方を変えることで証明した。


 初の麻酔手術の成功は1840年代。それまでは、痛みに耐えながら外科手術が行われていたのだ。考えるだけでも痛い話である。


 手洗いや消毒なんて、今どきの子どもでも実践しているが、これがウィーン大学総合病院の若手医師、イグナーツ・ゼンメルワイスによって提唱されたのも同じ頃。出産直後に発生する産褥熱(出産によって生じたキズなどから細菌が入り込んで起こる発熱。母親が死亡することもあった)が感染性の物質によってうつると考えたからだ。


 新参者は、時の“大物”によって潰されることはままあるが、〈「病理学の帝王」とまで呼ばれた、ドイツ医学界の権威ルドルフ・ウィルヒョウ教授は、頭ごなしにゼンメルワイス説(感染説)を攻撃し、完全に否定してのけた〉という。そうなると優れた薬や技術も普及が遅れる。同じようなことは現代でも起こっているのだろう。


 本筋ではないが、結構充実していたのが語源ネタ。


〈マラリアという言葉自体、イタリア語の「悪い空気」を意味する「mal aria」から来ている〉


〈ヘロインの名は、服用すると「英雄的」(heroic)な気分になれたことに由来する〉


〈(フェノールによる消毒に成功した英国の外科医、ジョセフ)リスターの名は今も消毒のイメージと強く結びついており、たとえば口腔消毒剤の「リステリン」という商品名は、リスターの名にちなんだものだ〉


〈梅毒は、ロシアで「ポーランド病」、ポーランドで「ドイツ病」、オランダで「スペイン病」、イギリスとイタリアでは「フランス病」と呼ばれたという。正体不明の不気味な病気を、他国のせいと思いたがったのは、どこの国も同じであったらしい〉。


 スペイン風邪が実際には米国で発生していたというのは、09年にH1N1型の新型インフルエンザが猛威をふるったときに知ったが、同じような話は他にもあったようだ。


 3世紀にわたって現役バリバリの「アスピリン」や、4つものエイズ薬を創った満屋裕明・熊本大学教授ほかまだまだ触れたい話はあるが、あとは本書で。


 同時に手に取った『医学の近代史』(森岡恭彦著。著者が外科医だけに、外科手術に関する歴史が充実。特に前半が面白い)と併せて読むと、医学史通になれること間違いなし。(鎌) 


<参考データ>

『世界史を変えた薬』

佐藤健太郎 著(講談社現代新書 740円+税)