何年か前のこと、某雑誌の創刊ウン十周年記念の特集で、戦後史の“秘話”のプランを求められ、人々の記憶に残る過去の風景と、もはや“歴史化した出来事”の境界について考えたことがある。


 難しい話ではない。誰にとっても自分が生まれる前、あるいはまだ物心つかない幼少期の話は、基本的にリアリティーのない伝聞の世界になる、ということだ。


 近年の週刊誌では、読者の高齢化が指摘され、団塊の世代をターゲットとした老いや死の特集、あるいは高齢者のセックスなどの企画がやたらと目立つようになった。読者層の中心を60歳前後と想定した場合、その世代の少年期・1960年代半ばが「懐かしさ」を覚えるリミットとなる。「三丁目の夕日」の時代だ。それよりも古い話は、もはや明治や大正の昔話と変わらない「歴史物語」と受け止める人が多くなってしまう。


 ところが、前述した企画会議で決まったラインアップを見渡すと、事実上の境界は1980年代の半ば、20年近くも短縮された感じだった。それ以前のテーマも含まれてはいるが、ある程度マニアックなネタが許されるのはあくまでも“境界線以降”、それ以前のネタは、誰もが知るポピュラーな話に限定されていた。


 つまりは、40歳前後の感覚が実際には基準とされ、構成が決められたのだった。週刊誌の編集部で言えば、原稿のまとめ役となる副編集長がその辺りの年代である。結局のところ、読み手よりも作り手の感覚が優先されたのだ。


 無理もない面もある。1960年代生まれの自分を基準に考えても、たとえば50年代の出来事を取り上げるとなると、事前リサーチの項目は格段に増える。“その当時の常識”として、記憶を頼りに書ける部分はほとんどなく、記事1本を仕上げる手間暇は格段に増えてしまう。


 そんなわけで、今週の文春・新潮が大々的に取り上げた往年の名女優・原節子の訃報は、取材を請け負った30代の記者たちには相当に荷の重い仕事だっただろう。もしかしたら「原節子って誰?」と途方に暮れた取材班メンバーがいた可能性もある。


 戦前から戦後にかけ、小津安二郎の作品などで不動の地位を確立したものの、62年、40代前半の若さで突如芸能界を去り、以後、鎌倉の自宅でひっそりと半世紀もの隠遁生活を送った。メディアとの接触を一切断ち、私人としてプライバシーを守り切った生き方は、後年で言えば、歌手・山口百恵の引退後のスタイルにも通じるものがある。


 脇役専門の無名女優(原節子とも共演している)を祖母にもち、戦前・戦後の映画界について調べたことのある筆者は、業界の知人から原節子への取材に挑戦してみないか、と勧められたことがあり、ほんの少し、下調べを試みたことがある。正直なところ、今回の追悼特集は、古い映画関係者の回顧談以外、その手のリサーチですぐわかる範囲の話題に留まっていた。実際、若い記者たちにとってはもう、何が有名な逸話で、何が秘話なのか、判断は困難だったに違いない。


 新潮では、原節子が戦前、欧州旅行に行き、ナチス宣伝相のゲッペルスらと面会した逸話に触れている。原節子には、熊谷久虎という映画監督の義兄がいて、この男が相当に怪人物だった。スメラ学塾なるカルト的国粋団体を設立し、敗戦直前には九州に独立国家を打ち立てて、アメリカとの徹底抗戦を画策した。


 当代一の美人女優として活躍した原節子は、戦前から戦後にかけ、数多くの政府・軍関係者の内幕にも接してきただろう。映画界の話だけでなく、彼女の見た戦争の時代の秘話に関しても、可能なら聞いてみたかった。晩年の彼女は毎朝、2つの新聞に隅々まで目を通し、時事問題についての本をよく読んでいたという。

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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。1998年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。2007年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って」(ともに東海教育研究所刊)など。