(1)実在した最初の天皇か

 

 古代史を少し勉強すれば、天皇の系譜が「万世一系でない」ことがすぐわかる。そうとわかっていても、出世や金儲けのために、「万世一系」を信じているフリをする人が少なからずいるようだ。現代では、「万世一系」ではなく、「王朝交替」説が一般的であると思う。


➀神武天皇(初代天皇)……『古事記』『日本書記』の神武天皇物語はフィクションである。

②欠史八代(2代~9代)……物語・業績が書かれておらず系譜のみが書かれてある。やはりフィクションである。ただし、欠史八代とは、葬り去られた葛城王朝の残像という説もある。

③崇神王朝……第10代崇神(すじん)~第14代仲哀。本拠地が大和(奈良県)三輪山のふもとなので三輪王朝とも呼ばれる。なお、12代~14代はフィクションという説もある。

④応神王朝……第15代応神~第25代武烈。根拠地が河内なので河内王朝とも呼ばれる。

⑤継体王朝……第26代継体~現代


 そんな風に考えると、第10代天皇崇神は、実在した可能性大の最初の天皇(大王)ということになる。「崇神=神武」という説すらある。実在を前提にすると、崇神は、3世紀後半の人物で、支配地域は、せいぜい大和地方(奈良県)と推理されている。


(2)伊勢神宮


 天照神の予備知識を少々述べます。「天照神(太陽神)」を考えるに当たって、これを「自然神」と認識するか「人格神」と認識するか、である。


 初日の出に向かってお参りするのは「天照神(太陽神)」=「自然神」と認識するからである。だから、古代にあっては、多くの地方で、「天照神(太陽神)」=「自然神」が祀られた。平安時代初期に編纂された『延喜式(えんぎしき)』には、全国約2800社の神社が記録されており、そのなかに天照神を祀る神社が9社ある。伊勢の地は東が伊勢湾である。東の海から太陽が上るという神々しい光景から、素朴に「天照神(太陽神)」=「自然神」が祀られたのだろう。とにかく、各地に「天照神(太陽神)」=「自然神」が祀られていた。


 それとは別に、「天照神(太陽神)」が「自分の一族の先祖神」=「人格神」とする一族もいた。古代にあっては、一族の祖先、あるいは、一族と切り離されない守護的な存在を、動物、植物、鉱物、光線などとするトーテミズムが一般的であった。ジンギスカン一族は狼であり、アイヌは熊である。天皇一族は、天照(太陽)であった。それを祀る所は、むろん自分たちの生活地域内である。天皇一族の支配地域が大和周辺の時代、伊勢の「天照神(太陽神)」=「自然神」は無関係だった。わざわざ遠い伊勢まで行くことはあり得ない。


 ところが、㋐天皇一族の支配地域が拡大したこと、それと㋑伊勢の地域に非常に感謝する出来事が発生したこと、具体的には壬申の乱(672年)に際して、大海人皇子(天武天皇)は伊勢~海路~愛知県(知多半島・渥美半島)のルート確保によって勝利したのである。


 あれこれの理由で、伊勢の「天照神(太陽神)」=「自然神」と、天皇一族の「天照神(太陽神)」=「先祖神」=「人格神」が合体していく。


 単なる伊勢の「地方神」は、「国家神」へ変質するのである。その決定的推進者が第40代天武天皇である。天武天皇は壬申の乱のような悲劇を阻止するには、「天皇の祖先である天照大神を祀る伊勢神宮」を国教化する必要があると考えた。そのイデオロギーを確固たるものにするため、『古事記』『日本書記』の編纂に乗り出したのである。


 ご承知のように、伊勢神宮は「内宮」と「外宮」がある。「内宮」が天皇の祖先である天照大神を祭り、「外宮」は豊受(とようけ)大神を祀っている。豊受大神は食物神である。「内宮」の神官(管理者)は比較的新しい荒木田氏である。「外宮」の神官(管理者)は、古い土着の豪族・渡会氏である。


 さまざまな推理が成り立つが、もともと伊勢の神は、素朴な「天照神(太陽神)―自然神」と「食物神」の両面を持っていて、地元の渡会氏の地方神(氏神)でもあった。それが、時代とともに、「天照神(太陽神)―自然神」の側面が、天皇一族の「天照神(太陽神)―人格神」と合体し、その管理は新興の荒木田氏が担うことになった。そして、「食物神」の側面は土着の渡会氏が引き継いだ。


 くどくどと述べましたが、崇神天皇の時代(3世紀後半)にあっては、「天照神(太陽神)」は、後世のような特別な神ではなかった。そのことを知らないと、崇神天皇の物語が訳のわからない話になってしまう。


(3)大物主神の登場


 周り道をしましたが、本題の崇神天皇の物語を『日本書記』に則して述べます。


 崇神は、開化天皇(第9代天皇、欠史八代の最後)の皇子である。母は物部氏の一族である。天皇に即位して3年、都を三輪山の西麓へ移した。


 若干の解説をします。三輪山です。三輪山は御諸山(みもろやま)ともいう。美和山とも書かれる。三輪山は山そのものがご神体であり、大物主大神が鎮座する神の山である。天武天皇が「天皇⇔天照大神⇔伊勢神宮」イデオロギーを推進する以前は、天皇及びその周辺でも、たとえば額田王の歌(歌は省略)でも推測されるように、「三輪山⇔大物主大神⇔大神神社」が素朴に信仰されていた。


『古事記』では、出雲の大国主は国造りで苦心惨憺する。でも、最終的に、海上に光り輝いて出現した大物主神を三輪山に祀ることによって、国造りは成功した。大神神社の伝説では、大物主は大国主の魂となっている。『日本書記』では、「大国主=大物主」となっている。従って、「三輪山⇔大物主大神(大国主)⇔大神神社」ということになる。


 出雲と大和は距離が離れているが、縄文時代~弥生初期時代にあっては、大和は出雲の新しい植民地であったのだろう。

 

 崇神5年(即位5年)、疫病が大流行。人口の半分が亡くなった。


 崇神6年、疫病が原因で死者続出、社会不安蔓延。反乱すら発生した。崇神は宮中で徹夜して疫病ストップを、神様に祈った。その結果、崇神は、宮中で祀っている天照大神と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)の2神を並べて祀ったのが悪かった、2神が互いの神力を張り合ったため、疫病が大流行した、と判断した。そこで、2神を宮中から外へ出した。


 天照大神には豊鍬入姫(とよすきいりひめ、崇神天皇の娘)をつけて、倭の笠縫邑(かさぬいむら)へ祀った。


 倭大国魂神には淳名城姫(ぬなきのいりひめ、崇神天皇の娘)をつけて、祀った。しかし、倭大国魂神の神力が強烈すぎて、淳名城姫の髪の毛が抜け落ちてお祈りできない。


 ここでも若干の解説をします。「倭大国魂神」であるが、なんとなく「出雲の大国主」かな、と思ってしまうが、どうやら別の神らしい。単純に、その土地に古くから祀られている神らしい。それはともかく、「倭大国魂神」のほうが「天照大神」よりも神力が強いのである。


 それから、笠縫邑へ行った「天照大神」はどうなったか。『日本書記』では、崇神(第10代)の次の垂仁(第11代)の時代、垂仁の第4皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が、大和の笠縫邑から、伊賀、近江、美濃、尾張を経て伊勢に入り五十鈴川のほとりに宮を建てたのが伊勢神宮の始まりと記されている。『古事記』には、天照大神がなぜ伊勢なのか記述がない。


 崇神7年2月、崇神天皇は困り果て、災いの原因を占った。このとき、倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととひ・ももそ・ひめのみこと、第7代孝霊天皇の娘)が神憑りになって言った。

「天皇よ、なぜ国が治まらないことを憂うのか。もし私を敬い祀れば、必ず国を平穏にしよう」

 崇神天皇は聞き返した。

「そうおっしゃるのは、どちら様の神ですか」

 神憑りなった姫の口を借りて神は答えた。

「私は倭国の域内の神、大物主神(おおものぬしのかみ)である」


 ここでは、重要人物、倭迹迹日百襲姫命(略して百襲姫)を説明します。『日本書記』の崇神天皇の段落では4ヵ所で登場します。3ヵ所は占い霊能力者ですが、1ヵ所は「箸墓伝説」で、少々エロい話です。


 疫病大流行の話の途中ですが、「箸墓伝説」の説明の都合上、話を先回りします。疫病も終息し、4将軍を四方に派遣して領土拡大を果たす。天下泰平の御代となる。そして、百襲姫は大物主神の妻となりました。しかし、男神は昼には来ず、夜しか来ない。百襲姫は「あなた様の美麗な御姿を見たい」と言う。男神は「よしわかった。明日の朝、あなたの櫛を入れる箱に入っている。驚くなよ、叫ぶなよ」という。朝になって百襲姫は半信半疑で櫛の箱を開けた。すると、とても可愛らしい小さな蛇がいた。その長さと太さは下衣の紐のようだった。百襲姫は驚いて叫んでしまった。大物主神は恥ずかしく思い、すぐさま人の姿に変身した。「よくも私に恥をかかせたな。私は山へ帰って、今度はお前に恥をかかせてやる」。大神は大空へ飛び上がり、御諸山(=三輪山)へ行ってしまった。百襲姫は大空を見上げて後悔し、そしてドンと座り込んだ。座り込んだ所に箸(はし)が置いてあった。座り込んだ勢いで、女性器に箸が突き刺さり、百襲姫は亡くなりました。その墓は箸墓と名付けられた。その箸墓は、昼は人がつくり、夜は神がつくった。莫大な労力が費やされ、巨大な前方後円墳である箸墓古墳(奈良県桜井市)がつくられた。


 なお、邪馬台国の卑弥呼と百襲姫は同一人物という説がある。


(4)やっと大物主神の怒りが治まる


 話を本筋に戻して。


 崇神天皇はさっそく、お告げのとおり大物主神を祀った。でも効果が現れない。水を浴びで穢れを落とし、肉食を絶ち、宮殿を清めて、必死に祈った。それでも効果なし。それで、今度は夢占いである。

「なぜ効果がないのですか。夢の中で教えてください。神の恩を」

 その夜、崇神天皇の夢に高貴な人物が現れた。その人物は、宮殿に向かって、大物主神と名乗った。

「国が治まらないのは、私の意思である。もし、我が子、大田々根子(おおたたねこ)に私を祀らせれば、すぐに国は平穏になる。また、海外の国も自然に従うだろう」


 ここで、またまた若干の解説をします。


 大物主神の要求は、最初は「私を祀れ」だけだったのが、「我が子、大田々根子に祀らせよ」と要求がアップした。なぜ、大物主神は要求をアップしたのか、神様の心はわからないが、たぶん、子が親を祀るのが自明のことであるから言わなかったのだろう。親は赤の他人から祀られても、さほどうれしくないものだ。それがわからない崇神天皇なので、大物主神は怒って疫病を継続させた、ということだろう。


 崇神7年8月、百襲姫を含めて3人が同じ夢を見た。3人は崇神天皇に報告した。

「昨夜、夢を見ました。ひとりの高貴な人が教えてくれました。大田々根子に大物主神を祀る主とさせる。市磯長尾市(いちしのながおち)に倭大国魂神を祀る主とさせる。そうすれば、必ず天下太平となる。そのように、夢の中で、高貴な人がおっしゃいました」

 崇神天皇は大変に喜びました。自分が見た夢と同じ夢を3人が見たのだ。しかも、そのひとりは断トツナンバーワンの霊能力者・百襲姫である。この夢は100%本物だ。

 あまねく天下に大田々根子を探すことを命じると、すぐに、和泉国陶器荘(現在の大阪府堺市陶器山付近)で大田々根子を見つけた。崇神天皇は諸王と大勢のお供を連れて出向いて、大田々根子に尋ねた。

「お前は誰の子か」

 大田々根子は答えました。

「父は大物主大神です。母は活玉依媛(いくたまよりひめ)で、陶津耳(すえつみみ)の娘です」

 大田々根子はまた言いました。

「奇日方天日方武茅淳祇(くしひかた・あまつひかた・たけちぬつみ)の娘です」


 ここで、大田々根子の出生に関して解説しておきます。


 前文を読むと、なんか、大田々根子の母は、活玉依媛なのか奇日方天日方武茅淳祇なのか、よくわからない文章です。ちなみに、『古事記』では大田々根子の母は、活玉依媛のひ孫の娘となっている。それはさておいて、重要なのは、活玉依媛である。


『古事記』の崇神天皇の個所に掲載されている。


 活玉依媛は美女である。そこへすこぶる容姿端麗な男が夜這いに来た。2人は相思相愛となり、活玉依媛はすぐに妊娠した。両親は娘が妊娠したことを知り、「夫もいないのに、どうして妊娠したのか」と問う。「美男子の男が夜な夜なやって来た。どこの誰だかわからない。名前も知らない」。両親は男の素性を探るため、娘に知恵を授ける。「赤土を床にまき、糸巻に巻いた長い麻糸を針に通して、男の着物の裾に刺しなさい」。娘は両親のアドバイスを実行した。翌朝、麻糸は戸の鍵穴を通り、糸巻に残っていた麻糸は、わずか3巻き(三輪)だった。男は鍵穴から出ていったのだ。麻糸をたどっていくと三輪山の神社にたどり着いた。それで、男が大物主神と判明した。めでたし、めでたし。


 話を本筋に戻して。


 崇神天皇は、大田々根子を発見、大田々根子が大物主神の娘(または大物主神の血統)であることを確認した。そして、崇神天皇は「私は栄えるだろう」と言った。


 すぐに、物部連(もののべのむらじ)の祖先である伊香色雄(いかがしこお)を神職にしようと占うと「吉」と出た。ついでに、他の神を祀ろうかと占うと「吉」は出なかった。

 

 崇神7年11月、崇神天皇は伊香色雄に命じて、物部に神に奉る平たい皿をつくらせた。そして、大田々根子が大物主大神を祀る主となった。また、市磯長尾市が倭大国魂神を祀る主となった。その後、他の神を祀ろうと占うと「吉」と出た。すぐに、八十萬群神(やおよろずのもろかみ)を祀った。天社・国社・神地・神戸を定めた。


 すると疫病が止み始めた。国内がようやく平穏になった。五穀が稔って、百姓は賑やかになった。


(5)朝まで酒を飲む


 平穏な社会になったので酒盛りをすることになった。


 崇神8年夏4月、高橋邑(奈良県天理市榎本町あたり)の活目(いくひ)を大神(おおみわのかみ、大神神社、大物主神の神社)の掌酒(さかびと)とした。掌酒とは神に酒を捧げる役である。


 崇神8年冬12月、崇神天皇は大田々根子に大神を祀らせた。この日、活目が神酒(みわ)を捧げて、天皇に献上した。活目は歌を歌った。

 この神酒(みき)は 我が神酒ならず

 倭(やまと)成す 大物主の 醸(かも)みし神酒

 幾久 幾久

(現代訳)この酒は私の酒ではありません。倭をつくった大物主が醸(かも)した神の酒です。いつまでも、いつまでも(栄えますように)


 神宮で宴会が始まった。宴会はすぐに終わったのだが、役人が歌を歌った。

  味酒(うまさけ) 三輪の殿(との)の

  朝門(あさと)にも 出でて行かな

  三輪の殿門(とのと)を

(現代訳)美味しい酒のある三輪神社の社殿で、朝が来るまで酒を飲んで、帰ろう。三輪の社殿から。

(感想)宴会が終わっても、酒好き酔っ払いは、徹夜で飲もうと大合唱、のん兵衛の本性か、やだねー。


 そしたら天皇も歌った。

  味酒(うまさけ) 三輪の殿(との)の

  朝門(あさと)にも 押し開かね

  三輪の殿門(とのと)を

(現代訳)美味しい酒のある三輪神社の社殿で、朝が来るまで酒を飲んで、帰りなさい。三輪の社殿の門を押し開いて。

(感想)役人たちが徹夜で酒を飲むぞと大合唱するから、天皇はOKした。天皇も徹夜で飲んだ。酒の誘惑に弱いのは崇神だけではないかも……ね。


 確認の意味で。崇神の時代、最高位の神は「三輪山⇔大物主大神(大国主)⇔大神神社」である。次が、地方神の「倭大国魂神」、その下が「天照大神」であった。


(6)四道将軍


 崇神9年、大和が平穏になったので、崇神天皇は、遠方4方面(北陸・東海・西海・丹波)へ4将軍を差し向け、遠方支配にのり出す。「もし、教(のり)を受けないものがあれば、すぐに兵を挙げて討て」と詔を下した。


 4将軍が出発した直後、謀反の情報が入る。百襲姫はピタリと謀反人を当てる。謀反人は崇神から見ると叔父といとこであった。合戦があって、崇神の勝利。そして全国平定。


 四将軍の全国平定の話はフィクションである。


 なお、この段落に、百襲姫の「箸墓伝説」が書かれてあります。


 崇神12年3月、崇神天皇は自画自賛の詔をした。そして、人口調査をし、人民に税金を課した。すばらしくよい世の中になりました。それで、崇神天皇は御肇国天皇(はつくらしらす・すめらみこと)、つまり[初めて治めた天皇]と呼ばれた。


 なお、『日本書記』は、神武天皇も「はつくらしらす・すめらみこと」と呼んでいる。


(7)夢占いで皇太子決定、やはり三輪山


 歳月は流れて、崇神48年、崇神は2人の息子に言った。

「2人とも愛している。どちらを皇太子にするか、夢占いで決める」

 2人の皇子は、身体を清め、祈り、眠った。そして、夢を見た。

翌朝、2人は夢を報告した。

 兄は「御諸山(三輪山)に登って東に向き、8回槍を突いて、8回刀を振りました」と言った。

 弟は「御諸山(三輪山)に登って、縄を四方に張って、粟を食べる雀を追い払いました」と言った。

 崇神は2人の皇子に言った。

「兄は東だけ向いて、東だけを治めようとしている。弟は四方を見ていた。弟を皇太子にする」


 夢占い、というか、現代なら施政方針演説かな。かくして弟が皇太子(第11代垂仁天皇)になった。


 崇神60年、出雲との関係でギクシャクしたようだ。出雲では、親崇神派と反崇神派で内紛発生。親崇神派は騙し討ちで勝った。

 崇神62年、農業用水路、ため池をつくる。

 崇神65年、任那が初めて朝貢する。

 崇神68年、崩御。


 実は、私は伊勢神宮へは数回行ったが、三輪山へ行ったことがない。今度行ってみよう。そして、三輪ソーメンを食べよう。そして一句。「三輪ソーメン はるかな古代 思いつつ」


…………………………………………………………………

太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。