文章の歯切れよさにまつわる問題と、ひと昔前によく聞かれた「万年野党」への批判には、実は似たところがあるような気がする。「全体」を語るのか、「部分」にだけ着目するのか、という話である。


 たとえば旧社会党。憲法や平和、あるいは労働問題には舌鋒鋭く切り込むが、経済政策や外交など、総合的なテーマを論ずるには、あまりにも人材がいなかった。国の方向性全体に論点が広がると、議論はあいまいに拡散した。政権を担う機会が乏しいがゆえの弱点であり、だからこそ、有権者からの支持も限定的だった。


 時事問題を扱う文章にも似たことが言える。切れ味の鋭い週刊誌の文章は、往々にして局所的な問題の指摘に留まるものが多い。新聞やテレビによる全体的な論評がまず存在し、それを前提にしたうえで、部分的なツッコミを入れる。だからこそ成立する類の記事が現実には多いのである。


 今週、ふとそんなことを思ったのは、新潮の『新聞は一切書かない東住吉放火冤罪 「釈放男」が女児に許されざる暴行』という記事を読んでのことだった。


 タイトルで薄々内容はわかると思うので、本欄で記事内容の詳細は記さない。20年前、小6の長女に保険金をかけたうえで火災を起こし殺害した、という有罪判決を受け、無期懲役刑に服していた父親の再審が決まった、というニュースの関連記事である。そこでは、新聞やテレビによる第一報では触れられていない元被告による娘との隠された過去が暴かれていた。


 そのうえで記事はこう綴っている。


《冤罪という司法のひずみが明るみに出たことで、メディアは鬼の首を取ったかの如く騒ぎ立てた。が、本件と決して無関係ではない「事実」には、依然フタをしたままなのだ》


 だが、筆者の胸中に真っ先に浮かんだのは、この記事を書いた記者への苦々しい思いだった。新潮のこの記者がもし、一報を書く新聞やテレビの記者だったら、果たしてどんな記事を書けたというのだろう。強引な捜査で殺人の濡れ衣を着せられた人物の再審が決まったとき、「でも、この男は……」とその“醜悪な人間性”にも触れることができたのか。となると、記事の全体的トーンはどうなってしまうのか。


 確かに、そういった要素をも取り込んで、そのうえで、司法の不手際への批判を主たるテーマに印象づけられるのなら、奥深い記事になるだろう。だが、この情報による元被告への嫌悪から「こんな男は殺人犯扱いのままで構わない」という情緒的反応を引き起こすことも容易に想像がつくのである。そんなトーンにならぬよう、あくまでも冤罪批判をメインに掲げたまま記事をまとめるには、相当ハイレベルな筆力が求められる。この新潮記者に、果たしてそんな芸当ができるのだろうか。


「鬼の首を取ったかの如く」という表現は、元被告の隠された情報をゲットした雑誌記者のほうに感じてしまう形容である。この記者はあくまでも、冤罪報道にまつわる一部分だけを拡大して記事にした。では、彼(もしくは彼女)だったらどんな一報を書き得たのか。万年野党への反論ではないが、まさに「代案を出せ」という話である。


 週刊誌には、実はこの手の“局部拡大型”の記事が少なくない。先行する“そもそもの話”に難癖をつける形での“続報”である。もちろん、そういった記事にも存在価値はある。だが、ここまで偉そうに書かれると、どうしても抵抗を感じる。


 たとえ自分が一報を書く立場にあっても、同じだったかもしれない。そんな自覚のもとで書かれた記事だったら、ここまでの嫌悪感は生まれなかっただろう。そう、私は「鬼の首」というひと言に引っかかってしまったのである。今ふうの言い方で言えば、それはまさに執筆者への「ブーメラン」となるひと言のように、私には思えた。

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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。1998年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。2007年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って」(ともに東海教育研究所刊)など。