今週の週刊新潮に、戦後の日本に抜きん出た存在感を示した元首相・田中角栄氏をめぐる証言が特集され、その中のひとつのエピソードに目が留まった。ロッキード事件での逮捕以後、「6間の沈黙を破って」1981年1月10日発売の月刊文藝春秋に氏のスクープインタビューが掲載されたのだが、実はそれに先立つこと9日、元日のブラジルの新聞に、本当のスクープインタビューは載っていた、という話だ。


 この新聞、決してブラジルの高級紙などではなく、戦前から戦後にかけ、日本からブラジルに渡った移民向けの『パウリスタ新聞』というマイナーな日本語新聞であった。とある通信社の東京支局長にパウリスタ新聞からの依頼があり、元首相に取材を申し入れたところ、いったんは秘書に断られたものの、なぜか後日、一転して取材を受ける、という連絡が届いたのだという。


「ブラジルに移住した多くの日本人が田中先生の声を聞きたがっています」。元支局長は秘書に託した伝言が、功を奏したのではないか、と振り返る。実際、インタビューの中で田中氏は首相時代、ブラジルの大統領を訪ね、「私は若い頃、ブラジル雄飛を目指していた」と話した逸話を述べ、自身も若き日に移住を夢見たことを明かしている。


 1950年代から60年代にかけ、国内各地にある農村部の市町村役場には「移住係」という窓口が設けられ、農家の次男、三男に南米への移住を呼びかけていた。少子化や人口減に苦しむ現在では考えられないが、高度成長が始まる以前の日本では、過剰人口を緩和するために、国策として海外移住が奨励されていたのだ。


 筆者は06年まで7年間、南米に居住して、現地日系社会について調べていた関係から、思わずこの記事に目を留めたわけだが、まだ貧しかった戦後の日本には、“口減らしの国策”に応じて数多くの同胞が海外に旅立って行った時期があり、昭和期の指導者の中には、そのことを気にかけていた人も存在した。


 週刊文春では、今月の月刊文藝春秋で小泉元首相の単独インタビューに成功したライターの常井健一氏がインタビューの裏話を書いているが、小泉元首相もブラジルに渡った親類がいた関係で、移民に思いを寄せる人だった。カリブの国ドミニカで、募集時の説明とまるで違う不毛の地に送り込まれ、困窮した農業移民らが、日本政府を相手取り集団訴訟を起こしたとき、移民らに謝罪する決断を下したのは、首相時代の小泉氏であった。


 ドミニカへの移民は60年代に帰国組と現地残留組に分かれ、前者は無一文になって集団で帰国、開拓を継続した残留組はやがて、国への訴訟を起こすのだが、私は帰国組の元移民からも田中元首相の「温かさ」について聞かされていた。


 夢破れ、帰国船で横浜港に着いた移民たちは帰国後の生活への不安から、政府や国会議員を訪ね歩き救済を求めたが、門前払いが相次ぐ中、議員時代の田中氏は移民らを優しくねぎらって、激励の言葉をかけたという。


 もはや大多数の国民にとって、戦後史の彼方に霞む存在となった日本からの海外移民。しかし、国内一の移民県・沖縄ではまだ郷土と移民とのつながりが保たれている。5年に一度の「世界のウチナーンチュ大会」には各国から沖縄系移民が集まり、祭典を楽しむ。この11月に筆者が沖縄を取材で訪れたときにも、私の南米居住歴を知り、自らの身内にも移住者がいるのだと親近感を示してくれた人が何人もいた。


 バブル期のデカセギ・ブームの際、いったいなぜ日系人なるものが各国にいるのか、そもそものいきさつをまるで知らず、首を傾げる日本人が多く、少なからぬ2世や3世を落胆させたものだが、移民社会で頻繁に耳にする「同胞」という言葉を、死語にしてしまうような「祖国」では、あまりにも寂しい。

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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。1998年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。2007年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って」(ともに東海教育研究所刊)など。