和歌山県太地(だいじ)町は、紀伊半島の南端の潮岬(しおのみさき)から東北20キロの熊野灘に位置する。日本の古式捕鯨発祥の地と称している。ここ数年は、イルカの追い込み漁で、反捕鯨団体からボロボロに批判されて注目を集めた。1980年代は、年間1万数千頭の捕獲量であったが、ここ数年は1000頭以下になっている。捕鯨が是か非か、イルカ漁が是か非か、それに関しては、さておいて……、鯨分限(ぶんげん)の太地角右衛門(1620〜99)のお話。


(1)西鶴も絶賛


 井原西鶴は、1688年に『日本永代蔵』を発表した。この本は、商売成功実録集で、商人の教科書になった作品である。その第2巻第4章において、捕鯨で大分限(大金持ち)になった天狗源内の話を紹介している。


「紀伊国の太地という漁村に鯨突きの名人で天狗源内という人がいた。『鯨一頭獲れば、七郷の賑わい』というほど浜は潤う。源内はただの鯨突きの名人ではなかった。捨ててしまう骨を砕いて油をとることを考えついて金持ちになった。さらに、鯨の『網捕り法』を発明して、鯨を取り損なうことがなくなり、大分限になった」


 この話の天狗源内が、太地角右衛門である。


 なぜ、太地が日本最大の捕鯨基地になったのか。まずは、「地の利」である。


 太地の海は熊野灘に位置し、江戸時代末期まで、9〜12月には北から南へ、翌年の3〜4月には南から北へ、鯨の群れが潮を吹き上げ回遊していた。


 そして、地形の関係で太地の海は海流のスピードが遅くなり、遅くなった海流が太地湾に流れ込む。その流れに乗って鯨もやってくる。


 また、鯨は身の危険を逃れるため、水中深く潜水する習性があるが、太地湾はさほど深くない。


 次に「人の和」「天のナントカ」をスラスラ書きたいのだが、その前に少々、日本捕鯨の歴史について。


(2)武士を廃業して平和産業に転職


 捕鯨の歴史は、万葉集の時代にさかのぼる。万葉集の中には、鯨捕りの歌もあるが、室町時代末期までは、鯨捕りと言っても、死鯨を拾い上げたり、イルカ類程度の大きさのものを捕まえる技術しかなかった。


 室町時代末期に第1次捕鯨革命。


 捕鯨用の銛(もり)が発明された。これは、銛の先端に逆鉤(さかさかぎ)がついており、突き刺さると抜けないようになっている。そして、銛尻には綱がついており、それが舟に結んである。この銛を何十本も鯨に投げて、突き刺し、鯨を捕まえる。この方法を「銛突き法」という。この技術は急速に普及し、捕鯨専門の漁師組合があらわれた。


 太地の漁村でも和田頼元が、尾張から導入して、「銛突き法」の捕鯨組織「刺手組」を結成した(1606年)。


 和田頼元は、その地の地頭職であり、熊野水軍の頭領であった。戦乱の世も終わり、武士の大リストラ時代が到来した。むろん、水軍の出番もなくなった。彼は、あっさりと武士に見切りをつけて、和田一族と太地の村人の将来のため、新技術産業たる捕鯨産業に活路を開いたのである。戦争から平和産業へ大転換したのである。


 容易に想像できることであるが、「銛突き法」は個人プレーで成功するものではなく、集団プレーを要する。そんな意味で、水軍の経歴は、捕鯨という集団プレーに適していた。


 余談になるが、和田頼元の先祖のことである。11代前が朝比奈義秀である。朝比奈義秀の父は和田義盛(1147〜1213)である。和田義盛は鎌倉幕府の実力者であったが、北条氏との対立の結果、和田合戦(1213年)となり、敗死する。和田一族も滅亡した。ただ、朝比奈義秀は戦死せず、舟6艘に残兵500人とともに戦場を脱出した。


 その朝比奈義秀の行き先は諸説あり、➀高麗(『和田系図』)、②宮城県黒川郡大和町(伝説多数あり)、③太地(太地和田氏の家系図)となっている。この3つ以外にもあるかもしれない。


 それから、朝比奈義秀の母は、学術的には不明となっているが、木曽義仲の愛人である巴御前という伝説が存在する。美女で大力の女武者である。母が大力だから、その遺伝子を受け継いだ朝比奈義秀はものすごい怪力の持ち主である。鎌倉幕府第2代将軍源頼家が船で酒宴を催したとき、朝比奈義秀は船と浜を10回往復し、次いで海へ潜り、3匹のサメを抱きかかえて浮かび上がり、その怪力を誇示したという。朝比奈義秀の怪力伝説は多数あり、その怪力が巴御前生母説の証拠というわけだ。


(3)蜘蛛の網の蝉を見て


 お待たせしました。和田頼元の孫である太地角右衛門、いよいよ登場です。


 鯨を多数の小舟で取り囲み、20〜30本の綱つき銛を突き刺しても、なにせ巨大な鯨のことだから、逃げられることは日常茶飯事。蕪村の句に、こんなのがある。


 既に得し 鯨はにげて 月ひとつ


 当事者にすれば、なにが風流だ。『月』と『突き』が重なって面白いんだって、馬鹿にするな、と悔しがるだろう。


 悔しがるだけなら、凡人。角右衛門は「なんとかならないか。なんとか工夫しなければ」と日夜悶々。


 ある日、セミがクモの網にかかって捕えられたのを見た。


 アルキメデスが浴槽からあふれる水を見たように、あるいは、ニュートンが木からリンゴが落ちるのを見たように、人間の脳細胞の超不思議なカラクリによって、突如突然、「網捕り法」が閃いた。


 この方法は、鯨の行く手に大網を仕掛けて待ちぶせ、網にからめた鯨を銛で突き刺す捕鯨である。決断と実行の角右衛門、すぐさま巨大な網を製作、捕鯨組織の改編、漁師の訓練……、かくして1675年、最初の網捕り法を実施した。


 しかし、失敗。網がわら縄だったため、重いうえにすぐ切れる。そこで、網の素材を麻糸に変えるなど試行錯誤を経て、「網捕り法」を完成させた。


 1681年には95頭の鯨を獲得したと記録にある。これは空前の驚異的な数字である。数字だけでなく、「銛突き法」では海底に沈下する習性のため捕獲できないザトウクジラやイワシクジラなど高級大型鯨も捕獲できるようになった。


 捕鯨シーズンは約半年間であるから、2日に1頭捕れることになった。「鯨一頭獲れば、七郷の賑わい」の時代であるから、太地の浜にモノスゴイ大型好景気が到来した。鯨95頭による収入は約1万両と計算される。太地の村の戸数も急増して、1677年が257戸であったものが、新漁法成功後の1684年には471戸へ増加した。かくして、太地の捕鯨企業は、それまでの不安定な中企業レベルから、村人全員が捕鯨企業の正社員という天下一の大企業に発展したのである。


 実際のところ、漁師500人が指揮者の指令に基づき整然と捕鯨をするだけでなく、鯨舟や捕鯨器具の製造修理の部門、鯨の腱(けん)から弓の弦を製造する部門、鯨の解体部門、鯨油の採取部門などで百数十人が働き、さらに日雇いも含めると、総勢800人が小さな太地の浜で、昼夜、組織的に活動した。


 捕鯨革命の功績により、形式的には宮中と幕府へ鯨肉を献上した功績により、1686年、紀州藩主から太地姓を賜り、初代の太地角右衛門となった。


(4)「命とりの床上手」夕霧太夫とのロマンス


 太地角右衛門は大分限になったが、太地の村人すなわち従業員の待遇も「賃金救済法鯨漁節遺物」によると、手厚い福利厚生をなしている。


 例えば、捕鯨中に舟が転覆して衣類を喪失した場合は、手ぬぐい8分、帯2匁5分と細かく定められている。


 太地の成功は全国に知れ渡った。その秘法を盗み取ろうと、土佐藩は藩専属の鯨方頭領を太地に潜入させた。しかし、素性が発覚。太地村の幹部は厳罰を唱えたが、角右衛門は罰するどころか、「網捕り法」を伝授し、鯨舟と60人の技術指導員を土佐へ派遣した。


 やっぱり、なんですな、そういう太っ腹の胆のすわった人格者だからこそ、当初、失敗ばかりの「網捕り法」に、村人は協力を惜しまなかったのだと思う。人望のない人物だったら、ただの「思いつき」だけで終わったんじゃないかな。そんなことで、「人の和」「天のナントカ」も察してください。


 そうした好人物だから、当時、最高の美女、人気絶頂の大坂新町の夕霧太夫(1653〜78)とのロマンスも生まれた。


 元禄期の三花魁(おいらん)とは、京島原の吉野太夫、江戸吉原の高尾太夫、そして大坂新町の夕霧太夫である。この3人の中でも、西鶴の『好色一代男』によると、夕霧太夫がナンバーワンである。


 その人気たるや、現代の女優やアイドルなんか目じゃない。


 夕霧は最初は京島原にいたのだが、彼女の揚屋が大坂新町に移転することにともなって、彼女も大坂新町に移った。すでに評判の遊女だったから、「京女郎の大坂下り」では、淀川の堤は見物人でごったがえし、その道中姿はすぐさま歌になって大ヒット。夕霧は26歳で病死するが、そのことはますます夕霧の名を高め、歌舞伎・浄瑠璃では夕霧をテーマにしたものが続々上演されて、記録的大ヒット。


 太地角右衛門は網で鯨を捕まえたが、夕霧大夫は何で角右衛門を捕まえたのかな……。『好色一代男』には、夕霧について次のように書いてある。「手足の指は豊かにほそく、姿かたちはしとやかで肉づきよく、目つきは利口そう。声がよくて、肌の白さは雪とあらそい、命とりの床上手」。


 むー、命とりの床上手、かー。 


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。