今週の各誌は昭和を代表する無頼派の作家・野坂昭如氏の訃報を取り上げている。
野坂氏と言えば、朝ナマの好敵手だった映画監督・大島渚氏とステージ上で殴り合いを演じた“珍場面”が有名だが、あくの強いサングラスの怪人、としか記憶しない40代以下にとって、その多面的な人格が全体として醸し出す愛おしさ(胆力とあがり症、ダンディズムと粗忽さが混ざり合う、昭和の男ならではのペーソス)は、もはやピンとこないキャラクターかもしれない。
去年のちょうどこの季節、筆者は急死した名優・菅原文太氏の晩年をたどる連載の取材に着手して、関係者を訪ね始めていた。高倉健氏も亡くなったばかりの頃だった。若き日の文太氏には、野坂氏に憧れた時期があり、氏が立候補した参院選では応援のマイクを握っている。かき集めた資料の山の中に、そんなエピソードを見た記憶がある。
思えば、漫画家の手塚治虫氏や歌手の美空ひばりさん、あるいは歴史作家・司馬遼太郎氏など、国民的な文化人が他界するたびに人々は「昭和の終焉」を語ってきた。
だが、個人的な感覚で言えば、平成も四半世紀を過ぎたここ2〜3年、著名人の訃報にいよいよ本当の意味で「時代の区切り」を痛感するようになった。サンデー毎日の特集『レクイエム2015』の顔ぶれを一覧して、その思いを改めて深めている。
タレントの愛川欣也氏、冒険作家・船戸与一氏、漫才師・今いくよさん、哲学者・鶴見俊輔氏、作家の阿川弘之氏、ノンフィクション作家・佐木隆三氏、力士の北の湖敏満氏……。私自身はとりわけ、船戸氏と鶴見氏、佐木氏の3人に感慨が湧く。
船戸氏は新宿のゴールデン街でその姿を一度、拝見しただけだが、遠い日の私は、その著作を貪り読んだ愛読者だった。佐木隆三氏は、戦前の八幡製鉄について教えを乞うために、3年前、北九州市のご自宅にお邪魔している。先月、取材旅行で訪れた沖縄の旧コザ市(沖縄市)でも、かつてこの町に暮らした氏の思い出を人々から聞いた。鶴見氏には、20数年前、ベ平連の秘話を聞くために京都でお会いした。
今回の野坂氏を含め、私自身が魅力や憧れを感じていたこの世代の文化人たちは、誰もが皆、「戦後」の輝きを漲らせていた。手塚治虫氏も司馬遼太郎氏もそうだった。戦争や焼け跡の時代を知り、新しい民主的な世相をエネルギッシュに切り拓いた人たちだ。
昨今の保守論壇では、この国を“堕落”させた元凶として評判の悪い「戦後民主主義の時代」だが、私から見れば、こうした一連の文化人が共通して体現した価値観や世界観こそがあの時代を代表するイメージであり、それらは皆、血肉として私自身を形作っている。
だからこそ、「戦後的価値観」が次々と否定され、覆されてゆくこの時代に、無念の思いを抱きつつ眠りについたに違いないこれら先人に、やり切れぬ思いを禁じ得ないのだ。
サンデー毎日に寄稿した作家・作曲家のなかにし礼氏は、兄のように慕っていた野坂氏にこんな言葉を送っている。
《ああ野坂さん、ぼくはあなたこそが戦後日本の核心であると信じております(略)戦後日本の矛盾についてまこと歯に衣着せぬ論法で語り、行動されました。それはあまりにも真っ当であったがために、時に奇矯ととられ無謀とさえ見られた》
そう、私が憧れた昭和の先人は、程度の差こそあれ、その多くがドン・キホーテ的な気質を持ち合わせていた。時に、損得や勝ち負けを度外視して固執する筋論へのこだわりである。もしかしたら、次々と彼らが亡くなることに惜別の思いが溢れるのは、そういった昭和的人格の消滅という意味で「時代の区切り」を感じるせいなのかもしれない。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。1998年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。2007年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って」(ともに東海教育研究所刊)など。