(1)吉原ガイドブック
レンタルビデオショップの「TSUTAYA」は、蔦屋重三郎の子孫と何ら関係ありません。
蔦屋重三郎(じゅうざぶろう、1750〜97)は、江戸時代後期の出版商人で、抜群の企画力と新人発掘の才能があり、世界に誇る出版文化を創り上げた「陰の功労者」である。
時代は田沼意次が老中(老中在任1772〜86)を務める「田沼時代」である。賄賂が常識の風潮ながら、積極的な産業政策が江戸市中に好景気と開放感をもたらし、はつらつとした町人文化が実った時代である。
重三郎は江戸吉原で生まれた。ご存知、遊興の地である。想像力に優れている人は、もうこれだけで、重三郎の生涯は美女・遊女がふんだんに登場して、とニタニタ・ワクワク……その想像力は大当たり。
父母が離婚し7歳の時、吉原の蔦屋の養子になる。その頃の蔦屋が何の商売かは不明である。歳月は流れ、1773年、蔦屋重三郎、23歳の時、吉原大門近くに書店小売店を構える。商品は、大手出版社の鱗形屋が毎年春秋に発行する「吉原細見」である。これは、吉原の妓楼、遊女のガイドブックで、平賀源内も「1774年版・吉原細見」の序文を書いている。「吉原細見」は18世紀中葉までは、複数の出版社の競争状態であったが、この頃は、ほぼ鱗形屋の独占状態となっていた。だから、蔦屋は鱗形屋の系列小売店と言える。
その鱗形屋は、1775年、恋川春町(1744〜89)の『金々先生栄花夢』で大成功を収める。それまでの大衆本は童話・伝説・敵討・怪談などの絵画に絵解き文章を添える程度のものであったが、この本は、創作小説と絵画を五分五分に合体させたもので、出版界の大転換をもたらした。以後このスタイルの書籍は「黄表紙」と呼ばれ、鱗形屋は黄表紙の量産を開始した。
ところが、ここに突然、鱗形屋に大事件が発生した。『金々先生栄花夢』の大ヒットの年、手代が大坂の出版社で海賊版を売り出してしまった。手代の処罰だけでなく、鱗形屋も罰金刑となった。その事件の対応で鱗形屋はテンヤワンヤとなり、その年に発行する『吉原細見』の出版が不能に陥ってしまった。
チャンス到来。
蔦屋重三郎は電光石火の早業で「吉原細見」を出版したのである。つまり、小売店から小売兼出版社へ脱皮したのだ。翌年から、鱗形屋と蔦屋の「吉原細見」の販売合戦となった。生まれも育ちも吉原の重三郎は、吉原のことならスミからスミまで表も裏も知りぬいている。蔦屋は本の内容を一新しサイズも大きくした。その結果、軍配は蔦屋に上がった。
なお、この時点では、蔦屋は、「吉原細見」に関しては、鱗形屋と競合したのであるが、基本的には、蔦屋は鱗形屋の系列企業というスタンスであった。
(2)吉原作戦の成功
1778年、鱗形屋をめぐる第2の事件が勃発した。ある大名の用人が、金目当てに殿様のお宝を無断で質入れしてしまう。質屋を紹介したのが鱗形屋の主人。江戸追放の処分となり、鱗形屋は消滅の運命となる。
鱗形屋の系列企業である蔦屋も嫌疑がかかりピンチに陥ったが、1780年、蔦屋は15種の書籍を刊行して、出版業界に大攻勢をかけた。なぜ、蔦屋にそんな力があったのか?
私の推理だが、次のようなことだろう。
➀「吉原細見」の成功により、安定的なドル箱があった。
②鱗形屋という大出版社の系列というスタンスを保持していた。
③鱗形屋の専属的な売れっ子作家、人気絵師は、鱗形屋の消滅とともにフリーとなり、他の有力出版社と弱小蔦屋の獲得競争となった。吉原を熟知している重三郎は、アレしてコレしてソレもしての吉原作戦を敢行した。その詳細はウッハハということで、もう人気作家も絵師も大喜び。よって、蔦屋は鱗形屋の人脈継承に成功した。
④むろん、吉原作戦だけで大先生方が弱小出版社蔦屋に肩入れするわけがない。すでに、「吉原細見」で、青年実業家・蔦屋重三郎は燃えるような情熱と企画力の片鱗を大先生方に知らしめていたのだろう。
かくして、蔦屋の出版経営は急速に発展し、1781年には有力出版社がひしめく日本橋に本拠地を移したのであった。
出版界の情勢は、黄表紙の出現以後、いかに、実力作家・絵師を獲得するかにかかっていた。鱗形屋・蔦屋ラインに対抗するため、他の有力出版社は新人作家を活発に世に送り出し、黄表紙出版戦争が激化の一途であった。
有能新人獲得こそが、この戦争に勝つ方策であるから、作家・絵師を志す若者の中から、秘められた才能を発掘する眼力が必須となる。結果論から言えば、山東京伝(1761〜1816)、喜多川歌麿(1753〜1806)、東洲斎写楽、曲亭馬琴(=滝沢馬琴1767〜1848)、十返舎一九(1765〜1831)などを育て上げた蔦屋重三郎はすごい眼力である。むろん、眼力だけで貧乏青年が大成するわけがなく、当然スポンサーとなった。
それから、あえて言えば、芸術的才能と吉原の奥深いと言うべきか微妙なと言うべきか、ここでも吉原作戦はすこぶる効果を発揮したのであった。
(3)狂歌絵本と出版弾圧
元号が天明(1781〜88)に変わり、突如「貴賤上下おしなべてみな狂歌のみをよみ」という「天明狂歌」の爆発的大流行が始まった。
当時の出版業界は、儒学仏教書・歴史書・俳諧書など堅い内容は「書物問屋」、草双紙(黄表紙など)・絵双紙など軟らかい内容は「地本問屋」というように区別されていた。そして、狂歌は和歌・俳諧の系統だから「書物問屋」の縄張りと認識されていたから、「地本問屋」は無関心であった。しかし、蔦屋重三郎は、狂歌は形式的には和歌の31文字でも、内容的には軟らかい「地本問屋」の分野であると考え、狂歌の巨大マーケットに焦点を合わせた。狂歌のスーパースター太田蜀山人に接近するため、ここでも得意の吉原作戦を展開した。重三郎の妻が愚痴るほどの吉原作戦は成功し、みごとに狂歌師たちの人脈を獲得し、狂歌と浮世絵を合体させた豪華な狂歌絵本を企画し、大ベストセラー。かくして、蔦屋は狂歌文化において独占的成功を収める。
さて、黄表紙出版戦争は混戦模様が継続していた。蔦屋は吉原作戦で、トップ作家の山東京伝にアタック。これによって、文学史上、黄表紙の最高傑作といわれる『江戸生艶気樺焼』が発刊された。題名からして、この本は、ナニなんですなァ。
さらに、蔦屋は一気に黄表紙戦争に勝負をつけるべく、1788年、新規格「政治風刺黄表紙」の大冒険に打って出た。この新規格は大ベストセラーの大ヒット。大ヒットどころか空前絶後の場外大ホームランの連続となった。製本が間に合わなくて、小売業者へは、バラバラの紙と製本用の糸をそのまま荷車に積み込むという有様。江戸の人口が約100万人で、1.5万〜2万部も売れた。
しかし、時代は田沼が失脚して松平定信(老中在任1787〜93)の寛政の改革に入っていった。用心深く出版はしていたものの、やはり弾圧の波が作家を襲い、政治風刺黄表紙はおしまいとなる。
山東京伝は手鎖50日の処分を受けた。
恋川春町も政治風刺黄表紙『鸚鵡返文武二道』が槍玉にあがり、隠居に追い込まれ3ヵ月後には死去する。
2人の版元の蔦屋は取り締まり検閲官を買収して弾圧を逃れようとしたが、財産半分没収となる。
思うに、蔦屋重三郎の腹の中には、単に、黄表紙戦争の勝敗ということだけではなく、江戸っ子に蔓延していた政治批判の意気込みを共有していたのだと思う。それが、政治風刺黄表紙になったのではないだろうか。
(4)歌麿と謎の写楽
蔦屋の出版する本は黄表紙にしろ狂歌本にしろ、1ページの半分は絵である。だから、当然、多くの浮世絵師と関係を持つ。
当時最高の美人画の絵師は鳥居清長(1752〜1815)であった。清長の美人画は調和均整の女神のごとき完全完璧な八頭身美女で、あたかも和製ビーナスである。蔦屋が美人画を制覇するには、清長を超える絵師を獲得せねばならない。蔦屋は若き歌麿に目をつけた。変人的自意識過剰の歌麿の才能開花を辛抱強くスポンサーとして待った。
そして、寛政の改革で財産半分没収の打撃を受けた蔦屋は、ついに、歌麿の「大首絵」美人画を目にした。それは、完全完璧な女神美ではなく、そこには女性の内面からの真実がにじみ出ていた。蔦屋重三郎は、それを目にして涙した。これによって、歌麿・蔦屋コンビは美人画市場を制覇したのであった。
浮世絵界の2大テーマは、美人画と役者絵である。蔦屋は美人画に次いで役者絵の制覇も目論んだ。目をつけたのが若き葛飾北斎である。しかし、蔦屋は北斎には役者絵の才能がないと見限る。
そして、1794年5月、突然突如、無名の新人、写楽が蔦屋からびっくり仰天のデビュー。写楽の役者「大首絵」は役者の魂(執念、悲しみ)が妥協なく赤裸々に描かれていた。前衛的な写楽の役者絵は大反響を呼び、蔦屋は写楽の絵をドンドン売り出した。しかし、なぜか、その年の末、写楽の創作意欲は衰弱し、翌年には忽然と姿を消してしまった。写楽が活躍したのは、たったの10ヵ月間であった。
「謎の浮世絵師、写楽」をめぐって、北斎、歌麿、山東京伝……とする謎解きは、最近では、阿波徳島藩のお抱え能役者、斎藤十郎兵衛であるとする説が有力である。いずれにしても、「写楽は写楽」である。写楽を発掘した蔦屋重三郎の眼力こそ称賛すべきである。
なお、重三郎は曲亭馬琴、十返舎一九の大成を見ずに48歳で世を去った。原因は脚気である。
蛇足であるが、江戸時代の江戸では、精米した白米の習慣が広まり脚気(江戸わずらい)が多発した。経験的に蕎麦(ビタミンB1を含む)を食べると快復するので、江戸っ子はうどんではなく蕎麦を好むようになった。吉原には蕎麦屋がなかったのかも知れない。少なくとも有名な蕎麦屋はなかった。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。