(1)概略


  言わずと知れた万葉歌人である。『万葉集』に収められている歌の数は、写本によって若干異なるが一応は4516首で、ナンバー1は編者の大友家持479首、ナンバー2以下は大友坂上郎女(家持の叔母)84首、柿本人麻呂84首、大伴旅人(家持の父)78首、山上憶良(大伴旅人の親友)が78首となっている。


 山上憶良(推定660〜733年)は、奈良時代の中流貴族である。政治的な活躍はない。


 主な経歴は、702年に第7次遣唐使として唐に渡り儒教・仏教を勉学する。


 726年、筑前守に任じられ筑前国に赴任する。筑前国は、現在の福岡県にあたり、大宰府がある。同じ頃、大伴旅人が大宰府に着任し、2人が中心になって筑紫歌壇が形成された。「筑紫」とは律令国家以前の国名で、筑前国を含む北九州方面を言う。


 732年に山上憶良は、筑前守の任期を終え奈良の都へ帰る。帰京後も盛んに歌を詠むが、翌年には病のため亡くなったようだ。


 したがって、憶良の歌は、➀遣唐使時代、②筑前守時代(66〜72歳)、③晩年——に分けられて解説される。


 歌風の特色は、老、病、死、貧といった苦に焦点をあてた社会派歌人ということで、万葉歌人の中で異才を発揮している。 

(2)遣唐使時代の歌


 いざ子ども 早く日本(やまと)へ 大伴の 御津(みつ)の浜松 待ち恋ひむらむ(万葉集1巻63)

 (現代訳)さぁ皆の者、早く日の本の大和へ(帰ろう)。難波の港の浜松も(我らの帰りを)待ち恋ひ焦がれているだろう。

 (注釈)「大伴」は大伴氏で、大伴氏が難波地方を支配していたため「御津」の修飾語。「御津」は難波の港で遣唐使の発着港。


 この歌は『新古今和歌集』など多くの歌集に再収録されている。要するに、大流行。この歌で、日本人の精神構造の中に、「松」と「待つ」の語呂合わせ以上の意識が奥深く刷り込まれたみたい。松を眺めれば、恋しい人を待ち恋い焦がれる、日本のお気軽名曲「まつの木小唄」へと進化したのであります。外人にはわからない感性だろうな。


(3)筑前守時代


 憶良らは 今は罷(まか)らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむぞ(万葉集3巻337)

 (現代訳)憶良どもは、(宴会を)これで退席いたします。(家では)子が泣いているでしょうから。それにその母も私を待っているでしょうから。

 この歌は、「らむ、らむ、らむ」と繰り返す、調子のいいお遊びの歌である。宴会を中座します。子どもが家で泣いていますので。宴会参加者は(憶良は子煩悩だからなぁ、仕方ないなぁ)と思っていたら、次が「それその母も」と歌う。子の母とは妻である(なんだ、なんだ、女房が待っているから帰るのかよ〜。よっ、色男!)。というわけで、ドッと笑い声。


 なお、他の多くの歌からもわかるが、山上憶良は大変な愛妻家であり、子煩悩であり、親思いである。愛妻家の歌、子煩悩の歌、親思いの歌は、筑前守時代及び晩年に数多く詠まれているが、割愛します。


 ただし、子煩悩の歌で、次の1首は、誰でも1回は読んだり聞いたりしたことがあるしょうから記載しておきます。


 銀(しろがね)も金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも(万葉集5巻803)


 たぶん、「銀も金も玉も……」の歌が、山上憶良の歌の中では一番有名と思う。有名ついでに、「秋の七草」は山上憶良の次の歌によって決まった。「春の七草」は、いわば自然発生的に生まれたが、「秋の七草」は山上憶良が決めたのである。


 萩の花 をばな葛(くず)花 なでしこの花 をみなへし また藤袴(ふじばかま)朝顔の花(万葉集8巻1538)

(注釈)「をばな」は穂の出たススキ。「朝顔の花」は木槿(むくげ)、桔梗、昼顔、朝顔の諸説あり。施頭歌の形式「五七七五七七」になっている。


 秋の七草は眺めるもので、春の七草のように食べるものではありません。参考までに、春の七草は、せり、なずな(ぺんぺん草)、ごぎょう(ははこぐさ)、はこべら、ほとけのざ、すずな(かぶ)、すずしろ(大根)である。


 蛇足ながら、戦争中の1945年6月20日、食糧難のため「夏の七草」が選定された。あかざ、いのこづち、ひゆ、すべりひゆ、しろつめくさ、ひめじょおん、つゆくさ。旨いか不味いか、知りません。


(4)晩年


 72歳で奈良の都へ帰った山上憶良は、長歌の「貧窮問答歌」を詠んだ。憶良の最高傑作と言われている。もちろん、愛妻、子煩悩の歌、老や病の歌も多く詠まれているが、それらは省略する。


 なお、長歌の形式は、「五七、五七、五七……、最後は七」とする。


 いつの時代にも貧窮がある。この歌を読む人は、奈良時代の貧窮を想像するだけでなく、読む人が生きている時代の貧窮に思いを巡らすことになる。 


 貧窮問答の歌1首 併せて短歌

 風まじり 雨降る夜の

 雨まじり 雪降る夜は

 すべもなく 寒くしあれば

 堅塩(かたしお)を 取りつづしろひ

 糟湯酒(かすゆさけ) うち啜(すす)ろひて

 咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに

 しかとあらぬ 髭掻き撫でて

 我(あれ)をおきて 人はあらじと

 誇ろへど 寒くしあれば

 麻衾(あさふすま) 引き被(かがふ)り

 布肩衣(ぬのかたきぬ)ありのことごと

 着襲(そ)へども 寒き夜すらを

 我よりも 貧しき人の

 父母は 飢ゑ寒からむ

 妻子(めこ)どもは 乞ひて泣くらむ

 この時は いかにしつつか

 汝(な)が世は渡る

 天地は 広しといへど

 我(あ)が為は 狭(さ)くやなりぬる

 日月は 明(あか)しといへど

 我が為は 照りやたまはぬ

 人皆か 我のみやしかる

 わくらばに 人とはあるを

 人並に 我(あれ)も作るを

 綿も無き 布肩衣の

 海松(みる)のごと 乱(わわ)け垂(さが)れる

 かかふのみ 肩に打ち掛け

 伏廬(ふせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に

 直土(ひたつち)に 藁(わら)解き敷きて

 父母は 枕の方に

 妻子どもは 足(あと)の方に

 囲み居て 憂へ吟(さまよ)ひ

 竈(かまど)には 火気(ほけ)吹き立てず

 
甑(こしき)には 蜘蛛の巣かきて

 飯(いひ)炊(かし)く ことも忘れて

 ぬえ鳥の のどよび居るに

 いとのきて 短き物を

 端切ると 云へるが如く

 笞杖(しもと)執る 里長(さとをさ)が声は

 寝屋処(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ

 かくばかり すべなきものか

 世間(よのなか)の道(万葉集5巻892)


 短歌

 世間を憂しと恥(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば(万葉集5巻893)

 山上憶良頓首謹上


(現代訳)風に混じって雨が降る夜、雨に混じって雪が降る夜は、どうしようもなく寒いので、堅塩をつまんでなめながら、糟湯酒をずるずるすすって、しきりと咳き込み、鼻をぐずぐずさせて、あまりない髭をなでさすって、私をさしおいて立派な人物はいるものかと誇ってみるが、やはり寒いので、麻の布団をひっかぶり、袖なし衣をありったけ重ね着するのだけれども、それでも寒い夜だもの、私よりも貧しい人の父母はさぞや飢えて寒いことだろう。妻子たちは物をせがんで泣いていることだろう。こんな時は、どう工面しながら、あなたはこの世を渡っているのか。


 天地は広いというが、私には狭くなっている。日と月は明るいというが、私には照ってくれない。皆そうなのか、私だけがそうなのか。運よく人に生まれたのに、人並みに働いているのに、綿も入っていない布の袖なしの、海松(海藻の一種)のように破れて垂れたボロだけを肩にかけて、ひしゃげた小屋の中に、地べたにほぐした藁を敷いて、父母は枕の方に、妻子は足の方に、身を寄せ合って、愚痴をこぼしたり呻いたりして、竈には火の気もなく、甑(米を蒸す土器)には蜘蛛の巣がかかって、飯をたくことも忘れて、のどをひいひいさせていると、「ただでさえ短い物を、さらに端を切る」の言葉どおり、笞(むち)を持った里長の声は、寝屋にまで来てわめき立てている。こんなにも、どうしようもないものか。世の中を生きる道とは。


(短歌訳)

 世の中はつらい、(生きているのが)恥ずかしい。そう思うけれども、ここを捨てて飛び去るわけにもいかない。鳥ではないので。

 山上憶良、うやうやしく(上司へ)申し上げます。


 貧窮問答歌の解説には、儒教やら仏教やら中国古典文学やら、それなりの知識を動員すれば、高級な評論ができあがる。しかし、まぁそうしたことは一切省略して、要するに、単純素朴に「貧窮の庶民が大勢いて、苦しんでいる。悲しい」ということである。こうした悲惨な現実に対して、山上憶良は上司にこの歌を奉り「なんとかしてください」と嘆願したわけだが、回答はなかったようだ。回答があったとしても、当時の思想レベルでは、儒教の聖帝登場、仏教の大仏建立ということか……。


 貧窮の現実に対して、非常に多くの賢人、偉人、宗教家、思想家、政治家、経済人が、回答を示した。しかし、21世紀になっても模索中みたいである。


(5)童謡『雨ふり』


 千年の時が流れ、北原白秋(1885〜1942)が万葉集の山上憶良を読んだ。先に取り上げた「らむ、らむ、らむ」の歌が、白秋の脳細胞に触れると、「ラン、ラン、ラン」に変化した。さらに、「ラン、ラン、ラン」と「貧窮問答歌」とが能細胞の中で化学反応を起こした。そして、生まれたのが、童謡『雨ふり』(北原白秋作詞・中山晋平作曲)である。


1 雨雨ふれふれ 母さんが 蛇の目でお迎え うれしいな

  ピチピチ チャプチャプ ランランラン

2 かけましょカバンを 母さんの あとから行こ行こ 鐘がなる

  ピチピチ チャプチャプ ランランラン

3 あらあらあの子は ずぶ濡れで 柳の根本で 泣いている

  ピチピチ チャプチャプ ランランラン

  ※3は繰り返す。

4 母さんぼくのを貸しましょか 君君 この傘さしたまえ

  ピチピチ チャプチャプ ランランラン

5 ぼくならいいんだ 母さんの 大きな蛇の目に入ってく

  ピチピチ チャプチャプ ランランラン


 山上憶良の「貧窮問答歌」に対する北原白秋の回答が『雨ふり』である。

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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。