●尊厳死は筋書き通りにはいかない
さて前回に続いて、オランダでは安楽死の容認への過程において重要な関心を持って指摘され、論議テーマとなった「すべり坂論」を考えていきたい。「すべり坂論」とは前回説明したが、ここで筆者の簡単な要約を示すと、安楽死が独り歩きしてしまうと、患者の非自発的な“安楽死”が増えてしまうのではないかということである。
ドイツで安楽死が許容されていないのは、ナチスドイツ時代の記憶もシンクロして、非自発的な死を安楽死の名のもとに、また大量に繰り返されるおそれはないのかという危惧が、国民のなかに自覚されているためだ。つまり「すべり坂」をいつの間にか下り始めていくのではないかとのトラウマだ。
欧州や米国ではそうした「すべり坂論」に象徴される、「仕組みの暴走」、あるいは「偏った概念に基づく死生観の押しつけ」、あるいは「年齢差別、障害者差別への拡大」への懸念が相当に強い危機感を持って論議された経緯、されている状況がある。それを中途半端にしている(ようにみえる)スイスでは、自殺ほう助を含む安楽死に法的制裁を与えないだけで、国が、あるいは公的な医療団体が関与することを行っていない。市民感覚での倫理に任せているのか、それとも市民の倫理意識に相応の信頼があるのかもしれない。
前回、筆者は、安楽死の議論さえ、スタートラインに立っていないのに、「尊厳死」「平穏死」が社会化、常識化していく状況に危惧を示した。「患者の権利」が前提になっているオランダなどと比して、「患者の権利」が明文化されず、国民にもその権利が明確に認識されていない、啓蒙されていないなかで、「尊厳死」が早くも「すべり坂」を下り始めようとしているのではないかと不安になるのだ。
そして、その動機がどうやら、「家族の負担」や「医療費の次代へのつけ回しの忌避」であるらしいことに、苛立つ。特に医療費抑制の理由を背後に隠した「尊厳死」の「理想の最期論」ブームは、形を変えた同調圧力による「すべり坂」の現出だと思う。
最近の話題である透析中止論、あるいは年齢差別や障害者差別でいえば、やまゆり園事件の本質的な議論の欠如を挙げることができる。日本では、患者、高齢者、障害者の権利は明文化しなくても、本質的議論をしなくてもよいのだ。権利の認識はもっと具体的で、活用可能なものであるべきだ。「わかっている。認めている。同情している」だけでは、「患者の権利」は機能しない。
●安楽死を選べる制度ではない
オランダは安楽死のできる国だ――そう考えられている。しかし、オランダにおける安楽死法の決定は、「患者の要請に基づく患者の権利」と解釈すると、それは間違いだという(盛永審一郎著『終末期医療考えるために』)。オランダのいわゆる安楽死法は、「要請に基づく生命終結及び介助自殺に関する審査、並びに、刑法と遺体処理法の改正」という長い名称の法(以下、今回の稿では同法を「安楽死関連法」と称する)で、相当期間の長い国民的議論を経て02年に施行された。
その後、ベルギーでも安楽死法が制定されたが、03年のEU評議会の調査では、「安楽死できるか」との問いにベルギーはイエスで、オランダはノーだった。オランダは長い名の法が示すとおり、刑法と遺体処理法の改正(そこに特例を設ける)が主眼で、安楽死自体は原則禁止。そして特例の運用に際しては、「注意深さの要件」を示している。つまり、厳密な意味では、患者の権利として「安楽死の要請」ができるわけではなく、あくまでも「注意深さの要件」が満たされている場合は「可」という決定が行われるということだ。
盛永氏の著書から、「生命終結」の決定に関する3つのタイプを引用する。
① 生を維持する可能性がある治療を差し控えたり、取り外す決定。たとえば、人工換気、栄養チューブ、血液透析、心肺蘇生を差し控えたり、取り外して死をもたらす。いわゆる尊厳死。
② 苦痛や他の症状を緩和する決定。オピオイド、ベンゾジアゼピン、バルビツール酸塩などを多量に投与し、確実な副作用として死を早める。緩和医療死。
③ 安楽死、あるいは医師による介助自殺を遂行する決定。患者の要請で致死薬を投与。処方し、供給する。
オランダの場合は③に該当するが、これはむろん日本では禁止されている。また、オランダでも実際、患者の権利で安楽死を要請し、それが認められるわけではない。しかし、患者の権利として、安楽死を望むことはできると表現することはできると思う。そして、その権利に対する国民、政府、医療者の理解と認識が前提に、「注意深さの要件」を条件として安楽死を施行できるという解釈を筆者は持つ。繰り返せば、オランダでは、患者の権利として安楽死ができるわけではなく、「要請できる」ということではないのだろうか。
また、患者の権利には、「治療を拒否できる権利」が含まれるかどうかも重大な議論ポイントである。オランダでは、安楽死関連法の成立過程で、この「治療を拒否できる」権利が重視されたとみられる。この権利は、94年にできた医療契約法という法のなかで、「患者の同意」が必須化されたことが影響している。
論理的には患者が同意しなければ医療側は治療ができない。実際、そういう患者をどうすれば救えるかとの方法として、安楽死法ができたとの見方も成立する。患者の権利を補償するための制度というべきであろうか。「契約同意」という発想のなかで、医療と患者は同等で患者の権利は大きいことの仕組みをつくる、構造化することで、社会的合意が形成されている。安楽死関連の制度化が、モラルのなかで熟成され、それはまだ途上にある。繰り返せば、「医療」は患者と医療者側の同意があって成立しているとの基本認識がそこには介在している。
オランダでは、この制度が間違いなく機能しているかどうかを評価する委員会を設置しており、2010年の調査では、安楽死・介助自殺を要請した9100人の患者のうち、5050人は実施できなかったと報告されている。半数は要請があっても行われなかった。ただ、法制定後、徐々に施行数が増加している傾向は認められている。オランダでの、法制化後の動向、議論などについては、次々回以降にまとめて紹介する。
●本人が望んでいる、でいいのか
ここでやはり「尊厳死」による「すべり坂論」を考えてみよう。前出のオランダの検証委員会は10年、安楽死関連法以後、数値上では安楽死の件数は増加しているが、すべり坂はなかったと報告している。すべり坂の対象は、安楽死の対象にならない人が安楽死すること、つまり貧困層、高齢者、精神疾患患者、人種(その国における民族的マイノリティ含む)だが、そうした実例はなかったということだ。米国では、民族的マイノリティの問題が、社会問題の先頭に出てくることが多い。特に、安楽死の制度化に際しては、無保険者の安楽死が相対的に増加するのではないかとの危惧が専門家には多い。
盛永氏は、著書でオランダには「安楽死審査委員会」という厳密で透明性の高い組織がつくられていることに注意を喚起している。同氏も指摘しているが、制度が法律にそうした組織の必要を明文化したうえで、法が制定されなければならず、そうでなければ「それは格好のゲレンデ(すべり坂)になる」。
アイルランドの医師、シェイマス・オウハマニーは著書『現代の死に方』で、「私は尊厳死の意味が皆目わからない」と述べ、「米国では尊厳死は安楽死の婉曲表現になっている」と批判を示している。オウハマニーの危惧は、たぶん尊厳死、そしてその未消化な論理によるブームが「すべり坂」になるのではないかということではないかと思える。彼は「死が近い人間は尊厳死の筋書き通りにはいかない」と、医療現場では尊厳死を患者に迎えさせる、その環境をつくることがいかに難しいかを多様な角度から論じている。
オウハマニーが言うように尊厳死が医療技術上も難しいとしたら、しかし、それを安楽死の婉曲版として活用するならどういう手法が考えられるのか。患者に予め宣言させておくのだ。本人が望んでいる、ことで、技術や環境の水準がどうであっても、押し通そうとしてはいないか。
日本における尊厳死の、「コトバの浸透」は、その実態を検分し、いかにあるべきかの議論を尽くし、何が必要か、どうやって透明化すべきか、医療における患者の権利とは何か、環境整備はどうするのか、などの一切の議論を放棄しているか、ひとからげでやったことにしてアリバイにしようとしている。このままでいけば、すべり坂は必定だと筆者は予感する。ゲレンデを下る“ストック”となりそうな、患者に予め宣言させるもの、「事前指示書」について次回は考えてみる。(幸)