(1)時代が変われば必要とする人材も変わる


 たとえば、企業を考えてみよう。会社創業期(当然、中小企業)の社内は「親分・子分」といった義理と人情の世界であり、ライバル会社と熾烈に争う部門、すなわち生産現場や営業現場が重視される。


 そこでは、少々の法令違反なんかは、むしろ美談である。納期に間に合わせるため、社長も社員も全員が徹夜で汗と油だらけになる。社長夫人も夜食のおにぎりを山のように作って、いっしょに徹夜する。無事に製品の納入が終わるや一升瓶の酒盛り……誰も労働基準法違反なんて文句を言わず、笑顔と笑顔で「ヤッター、ヤッター」と喜び合う。営業現場でも注文さえ取ってくれば、少々の交際費オーバーなんか誰も文句を言わず「ヤッター、ヤッター」となる。


 ところが、こうした中小企業が大発展して大企業になってしまうと、現場よりも企画・人事・経理といった管理部門が重要視される。義理や人情よりも法令や社内規則が企業全体を包むようになり、官僚機構のようなものが形成される。そうでないと大企業は成り立たない。


 会社創業期から社長と一緒に、親分子分の意識でガムシャラに企業発展に尽くしてきた古参幹部は、「なんか、昔は情があったよなー」と違和感を持つようになる。経理畑出身者が重役になると「冷暖房完備の部屋でぬくぬく帳面を見ていた奴が、どうして出世するんだ。俺なんか、連日炎天下の得意先回り、夜は接待でしょっちゅう午前様、あの得意先の強欲旦那を陥落させるためにゃ、そりゃーもうー裸踊りもやったし……」と愚痴と不平でもって昔日の武勇伝を語る日々となる。


 石田三成(1560〜1600年)が生きた時代は、群雄割拠する戦国の世から天下統一という新時代に大変化した時期である。三成が所属した秀吉株式会社は中小企業から独占大企業に急成長・大発展した。中小企業時代は野武士のような武力一辺倒の人材が重宝されたが、大企業に成長するに従って、現場の武功はゼロでも中枢管理の才能がある人材が脚光をあびるようになる。石田三成の悲劇は、そこにある。


(2)現場での功績はゼロ


 石田三成が近江国石田村(滋賀県長浜市石田町)に産声をあげた永禄3年(1560年)は、織田信長が桶狭間で今川義元を破った年である。


 信長の勢力は着々と拡大し、天正元年(1573年)に北近江の浅井氏を滅亡させる。この論功行賞において、秀吉は浅井氏の旧領、北近江12万石を与えられ、はじめて領国経営を展開できる「大名」に出世した。


 これ以前に、秀吉は墨俣城や横山城を預けられていたが、それは城というよりは砦の言葉がふさわしい。城と呼ぶから城主に違いないが、支配経営する領土・領民があるわけでなく、言うならば最前線の砦の番人、突撃隊長の地位であった。したがって、その頃の秀吉が必要とする人材は、命知らずの野武士、腕力・武力の野蛮人、必要な知識は戦場現場の駆け引きだけであった。むろん、大名でないので直参の数も少なかった。


 それが、北近江12万石の大名ともなると、多くの家臣団を編成しなければならない。人材も武力一辺倒だけでは事足らず、多士済々を集める必要がある。その供給源は、秀吉自身の出身地である尾張と秀吉の領地となった北近江である。それゆえ、秀吉家臣団は尾張衆と近江衆の2派閥が形成されたとみる向きもある。


 尾張衆=加藤清正、福島正則、加藤孫六(加藤嘉明)、浅野長政、前田玄以ら

 近江衆=宮部継潤、小堀遠州、藤堂高虎、石田三成、長束正家ら

 ※増田長盛については、尾張出身、近江出身の両説あり。


 秀吉の人材集めは、由緒正しい血筋など関係なかった。つまり実力本位である。当然、秀吉の前で派閥活動は不可能であるから2派閥形成論は無理がある。


 さて、石田三成が秀吉に見出された有名な逸話「三献の茶」がある。


 北近江12万石長浜城主となった秀吉が鷹狩りの途中、喉が渇いて寺に寄った。


「だれか茶を」と所望すると、寺の小姓は、大ぶり茶碗にぬるめの茶を7〜8分の量で持ってきた。喉が渇いていた秀吉は一気に飲み干し、「今一服」と声をかけた。今度は、やや小さめの茶碗に少し熱めの茶を半分程度の量で持ってきた。秀吉は、さらに「一服」と催促した。今度は小ぶりの茶碗に熱く点てた茶を少々差し出された。


 秀吉は、この小姓の機敏な気配りの才能を認めて近侍(きんじ)とした。この小姓が石田三成である。「機敏な気配り」と「ゴマすり」は紙一重である。この逸話は江戸時代の創作であるようだ。でも、嘘か真実かに関係なく、この逸話は、秀吉と三成の関係及び三成の性格を端的に表している。なお、長浜駅には、秀吉と三成の出会い「三献の茶」の像がある。


 三成が近侍となった時、先輩近侍としては、浅野長政、増田長盛がいた。2人とも三成より14〜15歳の年長であり、特に浅野長政は秀吉の夫人北の政所(ねね)の義姉弟にあたる。しかし、三成は「三献の茶」のごとき気配りの達人である。気配りの極意は、相手(秀吉)の心を我が心として、常に相手(秀吉)の意向を的確に推測し、相手(秀吉)の思うとおりの言動をなすことであるが、それだけでは単なる気配りの達人に過ぎない。


 三成は諫言すべき場合は諫言する才能も有していた。そんなことで、三成は秀吉社長の信頼厚い秘書となり、歳月とともに絶対的信頼を獲得していった。


 なお、三成は腕力・武力とは縁遠い体型だった。明治末に三成の墓が調査され骨が発掘されたが、女性のように骨細かったと記録されている。


 腕力・武力はさておいて、天正10年(1582年)本能寺の変の頃には、側近として浅野長政、増田長盛と事実上同格になっていた。とは言っても、秀吉社長は信長大社長の最前線支店長に過ぎない。最前線現場で必要とされる人材は現場で手柄をたて得るタイプである。最前線で兵糧弾薬が不足しても基本的に「本社支援頼む」で事足りる。つまり、中枢管理部門は重要でなく、三成が側近として出世しようとも、目立つ存在ではなかった。本能寺の変までは、三成の功績はほとんどゼロ、ただの機転がきく優秀な秘書にすぎなかった。


(3)巨大組織が必要とする才能を有していた


 三成最初の活躍は、信長大社長の相続争いの最終局面である秀吉と柴田勝家の戦いにおいてである。三成は秀吉の命により近江の僧に柴田軍の動静を探らせたり、あるいは、柴田軍を南北から挟み撃ちにせんと越後(新潟)の上杉景勝に出兵を促すための親書を届けさせたりした。上杉景勝は秀吉と柴田勝家の形勢を眺めていて結局は、出兵しなかった。


 上杉は傍観者であったが、天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いで秀吉軍は柴田軍に勝ち、同月、勝家を越前北ノ庄(福井市)で壊滅させた。


 本能寺の変から賤ヶ岳の戦いまでの約10ヵ月間が、信長大社長の遺産相続争いで、秀吉にとっても一か八かの運命の岐路であった。賤ヶ岳の戦いの勝利によって、事実上、秀吉の天下統一は保証されたと言っても過言でない。


 それでは、賤ヶ岳の戦いの論功行賞はどうなっているか。


 世に「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれるのが、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元の7人であるが、これは後世、語呂合わせで7人にしただけで、実際は14人の若手武将が最前線で武功を挙げた。その中に、石田三成も入っている。秀吉にとって、運命の大勝負であるから、近侍・親衛隊も最前線に投入しての総力戦であったことがわかる。猛者武将の三成への評価は「青白い三成もせいぜい頑張ったものだ」程度であった。もっとも、三成自身も自分の才能が発揮される場所は合戦現場ではない、と自覚していたと思う。


 北ノ庄陥落直後より、三成は秀吉の命によって上杉との友好親善樹立に動く。上杉家は家老・直江兼続の働きもあって、無事に役目を成功させる。上杉家家老の直江兼続は、すごい実力家老で、石高も30万石あり並みの大名よりも大きい。そして、上杉家の事実上の意思決定者であった。三成の誠心誠意の気配りが直江兼続に通じ、両者の信頼関係はずっと継続された。


 その場だけの親善条約締結ならば野武士でも大声を張り上げるだけで可能だが、心からの深い信頼関係を築く外交術は、三成の才能のひとつである。


 のちに、上杉景勝・直江兼続が会津で反徳川の兵をあげ、徳川家康が京・大阪を離れ会津討伐に向かい、その隙に石田三成が反徳川の旗揚げをするわけだが、三成・直江の2人の血盟的友情は、この時結ばれたに違いない。


 さて、柴田勝家を崩壊させた秀吉は、天下統一へ向かって一直線。


 勝家討伐直後の天正11年(1583年)5月には大阪城の築城を開始し、翌年8月に大阪城へ移る。その絢爛豪華を眺めれば、誰しも秀吉の天下を信じた。


 そして、天正13年(1585年)7月に関白となる。


 秀吉中小企業は一気に独占的大企業に成長したのである。


 大組織には、組織を運営する中枢管理部門が必須である。関白として政治を行うために順次、五奉行体制となった。なお、五奉行という役職があったわけではなく、政治の実務をなす5人の意味である。浅野長政(筆頭、主に司法)、石田三成(主に行政)、増田長盛(主に土木)、長束正家(主に財務)、前田玄以(主に宗教)の顔ぶれで、浅野・石田・増田の3人が一般政務にあたった。


 形式的な序列はともかくとして、天正14〜15年には、三成は五奉行の中の最大実力者に認知されている。そのことは、木食上人、島津義弘らの手紙や日記で明らかである。


 しばしば、三成を絶対権力者秀吉へのゴマすりだけで出世したとする風説があるが、たたき上げの才人の秀吉が、ボンクラを重く用いるはずがない。秀吉は三成を五奉行に選任するにあたって、「わしを諫める時も、わしの顔色にとらわれずに、遠慮なく言う」と評している。


 秀吉の心をわが心とする三成ではあるが、単なるイエスマンではなかったのである。


 絶対権力者秀吉に対してさえ、気配りしつつも遠慮なく諫言する三成である。ということは、諸大名にも遠慮なく苦言を浴びせたことであろう。野武士のごとき猛者大名にとって、武功なき三成の言動は傲慢そのものと感じたに違いない。


 しかし、関白秀吉は三成の才能を見抜いていたのだ。野武士・野蛮人だらけの猛者大名の時代にあって、猛将にはない才能が三成にはある、新時代には三成の才能が必要だと。


(4)優れた経済感覚と誠意の外交感覚


➀堺奉行を兼任

 天正14年(1586年)、三成と小西隆佐(行長の父)の2人は、南蛮貿易で栄える豪商の町、堺の奉行となる。小西親子は周知のごとくキリシタンであり、キリシタン大名を堺奉行に配置することは貿易拡大政策の明確な意思表示である。三成の役割、堺の富・機能の管理である。秀吉の九州平定に際し、大軍と兵糧弾薬をスムーズに輸送できたのは、三成が堺を兵站基地にしたからである。三成の商人的、経済的才能があればこそ、混乱なく成功したのだ。


 三成が金銭的感覚に長けている逸話としては、淀川の葦(あし)の採取権がおもしろい。


 秀吉が信長より播磨一国60万石を加増された時、秀吉は部下にもそれぞれ加増した。三成にも500石加増の内示をしたが、三成は断った。


「その代わり淀川の河原に自生する葦の採集権を頂戴いたしとうございます。それで1万石の軍務を務めます」


 近在の百姓は自由勝手に葦を刈ってヨシズなどに加工して売っていた。


「近在の百姓に迷惑をかけないならば、よかろう」


 秀吉は条件付きで許可した。


 三成はさっそく近在の村々に採取権を割り当て、その採取料(年貢)を徴収した。百姓も、過当競争がなくなり、以前よりも収入増となり喜んだ。三成はこれによって1万石相当の兵員を養うことが可能となった。


 もう1話、三成の金銭的感覚が優れている逸話を。


 淀川が氾濫しそうになった時、土嚢を作って積んでも間に合わない。三成は大阪城の米蔵の米俵を土嚢代わりに積み上げさせ、氾濫を食い止めた。雨が上がって、その米俵を堤防工事の百姓に報酬として与えたので、工事はすぐに完成した。


 こうした逸話は沢山あるが、真偽は不明である。逸話の真偽はともかくとして、三成は間違いなく経済感覚が優れていたのだろう。


②九州平定で兵糧弾薬補給奉行


 天正15年(1587年)の九州平定は勝つだけでなく、天下人関白の威光を天下の津々浦々に周知させる意図もあった。秀吉は、畿内・北陸・東山・東海・山陰・山陽の37ヵ国に20万人の兵を大阪に結集させ、30万人・2万馬の1年分の兵糧弾薬飼料などを兵庫と尼崎に集結させた。商人たちは、九州平定の大型特需で大喜び、秀吉の世を称えた。


 膨大な兵員軍需物資が円滑に移動できれば、もはや勝敗は決したも同然である。最前線の個々の武勇など枝葉末節に過ぎず、後方基地の管理運営こそが戦いの運命を決するのである。しかし、猛将たちは従来どおり個々の戦場現場での武勇こそが、武功と信じていた。


 秀吉も三成も合戦の変化を認識していた。兵員軍需物資がスムーズに展開できれば、行軍すなわち勝利であり、合戦といえども物見遊山である。秀吉は九州へ下る途中、安芸(広島)の厳島神社で和歌の会を催した。秀吉の歌は


 ききしより 眺めにあかぬ 厳島 見せばやと思う 雲の上人


であり、三成の歌は


 春ごとの 頃しもたえぬ 山桜 よも霧島の 心ちこそすれ


と詠んだ。


 大軍の行軍とは島津軍の敗退で、島津義久は和議を請う。ここで三成が外交折衝の役として島津氏の処分にあたる。島津義久は三成の誠意に深く感謝し、三成・島津の信頼関係が形成される。このことは、太閤検地の項で後述する。先に、「三成・直江」の信頼関係を述べたが、誠心誠意の外交感覚は三成の才に違いない。


 下剋上の時代に「心からの信頼関係」などなきに等しい。百姓・商人の言うとおり、「切り取り強盗は武士の習い」なのである。敗者と「心からの信頼関係」を結ぶことは困難なことである。猛者人物が任にあたれば「秀吉の威光で威張っている」「いつかこの敗戦の復讐を」という感情を残すものだ。


③小田原征伐


 九州平定が終了した秀吉にとって、残るは関東小田原の北条氏と奥州の伊達氏である。秀吉は外交手段で2人を服従させようとしたが失敗。そして天正18年(1590年)の小田原征伐となる。これは、九州平定よりも大規模で、それこそ個々の戦場など無関係であった。小田原を包囲する秀吉傘下の大軍勢のために遊郭が出現するし、秀吉も愛妾淀君を呼び寄せて風流を楽しむ有様である。


 小田原包囲の間、関東各地に点在する北条側の城は漸次攻略された。三成も、館林城と忍城(おしじょう)の攻略にあたった。まずは館林城である。館林城には「狐の尾曳伝説」があり、危機の際には狐が城を守るということで、それらしいことがあったかも知れないが、苦労しながらも攻略した。


 次は忍城、昨今、漫画やら映画で有名になった「のぼうの城」である。三成は水攻めを実行した。図面上は地の利を生かした完璧な作戦なのだが、個々の戦闘ではあれやこれやで撃破できない。とうとう小田原征伐が終了するまで攻略できなかった。結果論で言えば、図上の作戦は完璧なのだが、個々の戦闘場面での采配は下手ということであろう。


 関ヶ原の合戦でも、地の利を生かした各軍団の配置は完璧だった。軍団配置図を外人参謀に見せて、「どちらが勝ったか?」というテレビ番組を記憶しているが、全員、西軍(石田三成側)の勝ちと判断した。頭脳明晰ゆえに図上ならば完璧なのだが、戦場とは一瞬一瞬の呼吸・判断が求められる。そうしたことには不得意だったのだ。


④奥州経略


 小田原征伐にあたって、秀吉は伊達政宗ら奥州諸大名に対して小田原参陣を命じた。政宗は秀吉に屈するのを嫌がってぐずぐずしていたが、結局は北条氏滅亡(天正18年7月)の直前に参陣して秀吉の命に伏した。


 秀吉は小田原へ参陣しなかった奥州諸大名の所領を没収した。しかし、奥州の情勢は小田原陥落後約1年間、反乱やら一揆やらが複雑に発生して、秀吉は奥州情勢を「酒に酔っているようだ」とため息をついた。もっとも、1年後には平穏となった。その間、三成は伊達政宗に対して、誠心誠意を示したが、信頼関係を築けなかった。


⑤太閤検地


 秀吉は柴田勝家を討って、天下人への道を掌中にした。太閤検地もこの年から開始された。各地の検地奉行として活躍したのが、浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、大谷吉継らであった。


 政治とはあっさり言えば、「税金を取る」と「税金の使い方」だけのことだ。使い方は絶対的独裁者、秀吉の自由だが、税金を確実に取ることは今も昔も難しいものだ。年貢を確実に取るための台帳づくりが検地だから、関白の政治で最大の基礎的職務とは検地で、この実務を担ったのが、五奉行を中心とする面々であった。


 検地の実務と戦場での武功とは、性質が全然異なる。三成は武功はさほどなかったが、検地では卓越した能力を発揮し、秀吉に「所得倍増」をもたらした。合戦での領地獲得がハードな収入増なら、検地はソフトな収入増といえる。秀吉は検地の効能が武功にも勝ると承知していたから、歴史に残る「太閤検地」を積極的に実施させた。


 秀吉の命によって三成が采配を振るった検地の個所は文献によれば、次のとおりである。


 天正11〜2、近江

 天正17年、美濃

 天正18年、奥羽

 文禄2年(1593)、越後

 文禄3年(1594)、薩摩、大隅、日向の薩摩領。常陸、磐城、下野の佐竹領。近畿一帯、尾張


 検地の効果を島津領の場合でみてみよう。従来の石高は約21万石であったものが、実に58万石となったのである。島津氏にしてみれば、合戦なしで所得2.7倍になった。命がけの戦いによる領地拡大だけが収入増の道と信じていた野武士的大名にとっては、検地は魔法のようなものだった。


 検地によって、大幅に石高がアップするので、そのつど秀吉は新たな朱印状で知行地を保証して忠誠を誓わせた。島津領でいえば、1万石を秀吉の蔵入地とし、三成に約6300石を与えた。諸大名の領地内に獲得した蔵入地は秀吉の収入増であると同時に、大名を監視する拠点ともなった。


(5)秀次切腹、秀頼の父は誰か


 秀吉政権はかくして安泰であったが、中枢では大問題があった。


 実子のない秀吉は、天正19年(1591年)、甥(姉の子)の秀次を養子とし、同年、関白職を譲った。ところが、文禄2年(1593年)、淀君が秀頼を生んだ。


 秀次の能力は、あっさり言えば凡人並みで、世間の評判は、パッとしていなかった。秀吉は秀頼の幼顔をみるにつけ、次第に秀次の存在が疎ましくなっていった。


 そんな雰囲気の文禄4年(1595年)、秀次謀反の風評が流れ、三成は秀吉の命を受けて聚楽第で秀次を調査した。秀次は謀反の意図なしと誓ったが、毛利輝元が秀次謀反の証拠文書を三成を通じて秀吉に提出したので、秀次は切腹。哀れなのは、秀次の妻妾30余人、三条河原で焼き殺された。


 この事件を三成の謀略とする推理もあるが、本質は秀吉の秀頼可愛さからの事件と考えるのが普通だ。


 さて、三成謀略説は秀頼の父は三成であったとするものであるが、この説は根拠なき想像力に過ぎない。秀吉が真実父であるとは99%ない。しからば、誰が秀頼の本当の父か。有力説は、大野治長というもの。茶々(淀君)の乳母(大蔵卿局)が大野治長の実母で、2人は乳兄弟である。


 名古屋山三郎という説もある。彼の妻は出雲阿国といわれ、大変な美男子であった。美男子ゆえのフィクションであろう。


 石川五右衛門がそうだという漫画を見たこともある。想像力だけなら、なんとでもなる。


 私の推理では、陰陽師(唱門師)説です。


 昔の日本では子宝に恵まれない場合の救済システムとして「夜祭」があった。神仏公認の乱交(複数人と交わる)で、子宝を得るものである。あるいは「参籠」(さんろう)という民俗習慣もあった。子宝が授かるように神仏に願掛けして、毎夜「おこもり」するのである。静かなおこもりではなく読経三昧、法悦状態の中で、子が授かる。つまり、無意識状態の中での実質的乱交である。現代のアメリカでは、無精子の夫の代わりに複数の医学生の精子を集めて妊娠する方法があるが、それに似ているとも言える。


 こうした仕組みが、大阪城の僧侶・陰陽師によってセットされた。淀君第1子の鶴松の場合は、秀吉も承知の上で、大阪城内のお堂(密室)の中で、僧侶による懐妊祈願の法要がなされたから、それによって生まれたのだろう。法悦の下での乱交だから誰の子種か不明で、万分の一の可能性として秀吉の精子かも知れない。しかし、鶴松はすぐに死亡。


 第2子の秀頼の場合は、秀吉が朝鮮侵略のため大阪城を留守にして九州にいた時、淀君はかってに陰陽師(唱門師)による懐妊祈願の加持祈祷をして、懐妊してしまった。秀吉は無許可の懐妊加持祈祷に激怒して、淀君の取り巻き女房衆は追放され、陰陽師たちは殺害された。関係のない京大阪の陰陽師も大弾圧を受けた。


 しかしながら、秀吉は秀頼の幼顔を見るたびに、しだいに愛情が湧きあがり、秀次処分となった。


 秀次事件の後、三成は近江佐和山19万4000石の領地を与えられ佐和山城主となった。三成は、それ以前も領地を有していたらしいが、いつどこの領地か明確ではない。一般的には、柴田勝家を討った直後に、近江甲賀の水口4万石を得たとされている。その際、浪人中ながら天下に名高い島左近を2万石で召し抱えた。有能な人材確保のためには破格の厚遇をなしたとする逸話は他にもあり、先に、三成の経済金銭感覚を述べたが、人材確保の観点からすれば、


➀人材登用への誠意。


②腕力・武力の弱点を自覚して、それを補うため財産を費やす。


③自分の贅沢、蓄財には関心がない。


 そんなことが感じられる。三成は佐和山城を短期間のうちに修築し、その威容は琵琶湖に映え、


  三成の過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城


と当時の落首に書かれた。


 琵琶湖に映える城であっても、城内の装飾など戦国の城としての機能に関係ない部分には、いっさい金をかけなかった。では、金を金庫に貯め込んだのか。関ヶ原直後、徳川が佐和山城を接収した時、金庫は空だった。三成はすべてを秀吉のため豊臣のため使っていたのだ。徳川時代は反三成の気分が強い時代であったが、三成の汚職収賄の話は全然発生していない。清廉潔白な人物であった。


 三成の領地の経営は、とても緻密で、それは三成が出した掟で知られている。


 領地内に鉄砲鍛冶で有名な国友村があり、当然厚く保護奨励した。


 なお、三成の北近江の領地は19万4000石であるが、他に三成の父や兄の所領、秀吉の蔵入地で三成が代官を務める代官地などを概算すると、総計約40万石になる。40万石は加藤清正25万石、福島正則24万石よりも断然上で、徳川、毛利、上杉、前田、伊達、宇喜多、島津、佐竹、小早川に続く第10位の数字である。三成は実質的に大大名でもあった。


(6)諸将は合戦を欲していた


 文禄元年(1592年)2月、三成は大谷吉継らとともに朝鮮出兵の基地である北九州の名護屋へ、舟奉行として赴任した。秀吉は朝鮮出兵の成否は舟の確保による補給であると認識し、「舟を多く確保した者が手柄である」と指示した。九州平定、小田原征伐で明らかなように兵員軍需物資の円滑な移動こそが勝利の決め手であると認識していた。それゆえ、最も重要な舟奉行に三成を起用した。


 同年4月、小西行長が上陸、ついで加藤清正も上陸。小西と加藤は、いわばライバルで競争して進軍し5月には漢城(李氏朝鮮の首都)を占領した。6月には三成、増田長盛、大谷吉継の3人が奉行として朝鮮に渡る。舟奉行の役といい、秀吉の代理としての朝鮮での奉行の役といい、三成は実務的には朝鮮出兵の最高責任者であった。


 朝鮮出兵の経過は省略するが、その原因に関して一言。


 秀吉の野望、独断で朝鮮出兵が開始されたとする解釈が多いが、そうではないと思う。国内的には平和が到来した。でも、野武士のような猛者武将が圧倒的多数であり、全大名は超過剰な兵員を抱えていた。つまり、各大名は経営危機の寸前にあった。経営危機突破には、次の4つの方向が考えられる。


➀大名・武士の大リストラ→徳川家康は天下をとると実行した。


②新たな合戦の創造→内乱か海外侵略か。秀吉には、内乱の選択肢はない。


③海外貿易→過剰人員を貿易で対処する。小西行長など商人的大名は考えていたようだ。すでに、東南アジアでは日本人町が形成されていた。


④国内の殖産興業


 野武士的武将、過剰軍隊の世論は、秀吉の朝鮮出兵という大ビジョンに飛びついた。朝鮮出兵が失敗すると、実は我輩は乗り気でなかった、と言い出す。70年前の戦争でも、自分の本心は戦争に反対だった、と回想する人の多いこと。400年前も70年前も、同じみたい。


 朝鮮出兵が失敗すると、野武士の如き猛者武将たちは、その責任を秀吉側近ナンバー1、朝鮮出兵最高実務責任者の三成に集中した。そして、海外侵略がダメならば、必然的に内乱合戦を、と本能的に望むようになる。「切り取り強盗は武士の習い」の武士の世が400年続いているから、当然の思考形態である。誰も自発的なリストラなど望んでいなかった。野武士的猛者大名が圧倒的多数で商人的大名は極めて少数にすぎない。選択肢は内乱合戦である。


 慶長3年(1598年)、秀吉の死によって、猛将たちは内乱合戦を確実に予感した。合戦願望、それが世論である。


 対立軸の座標はいくつも重なっていた。秀吉・秀頼への忠誠度、北の政所と淀君の不和、徳川と前田の対立、家康への不信感の濃淡、三成への嫌悪感の強弱……連日連夜の策謀で猛将たちの頭は混乱を極める。頭が混乱すれば、ますますとにかく、なんでもいいから合戦して決着をつけようとする。


 家康の誓約違反、三成の家康襲撃計画、家康の前田討伐計画、前田利家の死、加藤清正ら7武将の三成襲撃計画、三成の佐和山城への引退……徳川家康は徐々に天下の実権を掌握していった。


 この時、上杉が三成との秘密同盟により会津で反徳川の意思を明らかにし、家康は会津征伐のため大軍を進めた。その隙に三成は反徳川の天下二分の大胆な策を実行した。芸術的とも思える、この策は完璧に成立し、関ヶ原でも完璧な布陣をとった。しかし、三成の現場での戦下手のため敗退した。時代は、まだ戦国時代の才能が優位だったのだ。


 三成は捕えられ、京都六条河原で処刑された。数多くの感動的な逸話が残っているが、それらは省略する。最後に、島左近の言葉、「主(三成)は決断が遅い」というものである。戦場では一瞬の判断が勝敗を決するのである。三成には、それがなかった。


 なお、蛇足であるが、「判官びいき」のため、石田三成生存説や遺児生存説が各地に語り伝わっている。

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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。