「保育園落ちた日本死ね」のブログを国会質問で取り上げて一躍、野党勢力の切り札に浮上した元検事・山尾志桜里代議士について、週刊新潮が早速、その政治資金報告書の“不自然な記述”を疑惑として報じた。
古くは沖縄返還密約を暴いた毎日記者・西山太吉氏、最近では沖縄県知事の翁長雄志氏など、時の権力が“危険分子”の醜聞をやっきになって探す、という水面下の画策は、ある意味、常套手段と言ってもいい。今回の記事の裏側に、政権のそんな動きがあったのか、それとも“阿吽の呼吸”による編集部独自の動きだったのかはわからないが、仮にきっかけが権力側の示唆や情報提供でも、そこに筋のいいネタがあるのなら、雑誌として報じるのは、一向に構わないと思う。
一方で政権側の不祥事を見つけたら、返す刀でそれもまた報じる。雑誌ジャーナリズムならではのそんな“制御不能な暴れ方”ができるなら、全国紙やテレビが“ことなかれ”に萎縮する中で、それはそれで頼もしく感じられるからだ。
心配は新潮が文春に比べると、この意味の“無定見さ”に今ひとつ欠けるように見えてしまうことだ。「返す刀」がまるでないようなら、政権の汚れ仕事を請け負っているだけの“便利屋”に堕していることになる。ここはひとつ、より一層奮起して、雑誌屋の矜持を見せてもらいたい。
その文春は作家・吉田修一氏による『週刊文春よ、「正義の味方」になるな』というインタビュー記事を載せている。連戦連勝の現状に自戒を込めた記事なのか、何らかの風当たりを予防するためのアリバイ的なものなのか。田中角栄・金脈追及の時代から「面白ければいい」と公言するこの会社の場合、興味本位以外に何らかの編集方針があるのか否かすら、よくわからないところがある。
ただ、ひとこと言いたいのは、吉田修一氏も指摘するように、最近の文春の影響力には、新聞やテレビをしのぐ勢いがある、ということだ。今やもう、大メディアもゲリラメディアもない。発掘したニュースにネットで火が点けば、部数の多寡は関係なくなるのだ。
たとえば、同じ保守系の新聞でも、巨大部数の読売と全国紙最小の産経を比べると、記事の正確性や信頼度とは関係なく、その“ドぎつさ”の点において、ネットでは圧倒的に産経記事のほうが目立つ。媒体の経営上、もちろん部数は重要だが、社会への影響力、という点では、横一線の時代になったのだ。
そう考えると、週刊誌ならではの無定見さについても、果たして今日でもそれが“美徳”と言えるのかどうか、なかなか微妙な面もある。下手をすると、たった1本の誤報で、1年半前の朝日新聞のような怒涛のバッシングの矢面に立つ事態にもなりかねない。かと言って、それを恐れるがあまり、週刊誌までもが守りに入ったら、それこそこの国のメディアは、総萎縮状態に陥ってしまう。
さて、先週、触れ忘れたが、週刊現代が合併号で『震災特番「視聴率全滅」が意味するもの』という重い記事を載せていた。内容はタイトルの通りで、こうした状況の背景には、人々が救いのない現実から目を背けたがる傾向や無力感の広がりがある、とさまざまな関係者が分析している。筆者も震災から3年半、毎月のように福島に通ってルポの著作をまとめたひとりとして、こうした現実には気が塞ぐ。
ただ、ジャーナリズムの世界には、その場その場で関心の高い社会的ニーズに応えるだけでなく、後世の検証に耐える記録を残す、という重要な責務もある。視聴率や売上部数には直結しなくても、報じるべきことを地道に報じてゆく。その部分においては、各媒体が中長期的に、それぞれの“定見”をもって取り組んでほしい。
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三山喬(みやまたかし) 1961 年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。1998年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取 材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。2007年に帰国後はテーマを 広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って」 (ともに東海教育研究所刊)など。