①清和天皇女御予定者は口説き落とされた


 時代は、藤原北家が、実質的権力を掌握しつつある時代である。藤原高子(842~910)は、藤原北家の娘として、将来は天皇の后となり、次期天皇を生むことが期待されていた女子で、「花や蝶や」とそれはそれは大切に育てられた。まったくの蛇足ですが、今は「蝶よ花よ」と言うが、平安時代は「花や蝶や」であった。


 実際、藤原高子では、8歳年下の清和天皇(第56代、850~881、在位858~876)の女御のひとりとなる。そして、藤原高子と清和天皇の子が、陽成天皇(第57代、869~949、在位876~884)である。


 そんな予備知識を踏まえて、藤原高子の色恋スキャンダルの一生を。


 859年、清和天皇即位後の最初の大嘗祭において、藤原高子は五節の舞姫をつとめた。五節の舞は、大嘗祭や新嘗祭に行われ、4~5人の舞姫が踊る。当時の最大級のエンターテインメントで、見物人がドッと押し寄せる。このとき、高子は18歳、清和天皇は10歳である。高子は、まだ入内していない、未婚の18歳である。高子の美貌は抜群であった。


 藤原北家のトップは藤原良房(804~872)で、清和天皇の成長を待って、高子を入内(→出産)させようと計画していた。10歳の少年でも、少しは色気もあるだろう、8歳年上であっても絶世の美女の舞を見せつければ、少年でも関心を持つだろう。少年が男に成長したら、すぐさま入内、すぐさま出産……そんな絵を描いていた。


 しかしながら、藤原高子の五節の舞を見ていたのは、清和天皇だけではない。大勢の見物客のなかに、在原業平(825~880)がいた。言うまでもなく、日本史上最高のプレイボーイである。このとき、業平は35歳である。


 そして、在原業平と藤原高子の恋愛ドラマがスタートする。男は女を、あの手この手で口説き落とす。藤原北家にしてみれば、「清和天皇の女御予定者」を傷者にされては困る。女は18歳にして初めて恋の甘美な蜜を知ってしまった。許されぬ恋ゆえの駆け落ち。しかし、駆け落ちは一夜だけで追手に追いつかれ、引き裂かれてしまう。藤原北家は、女を蔵に押し込め、男から防衛する。男は、蔵に向かって、笛を吹く。結局、男は京都から追放される。


『伊勢物語』のなかで、2人のロマンスが書かれてあるのは、

第3段 ひじき藻

第4段 西の対

第5段 関守

第6段 芥川

第7段~第14段は、追放中の出来事。

第65段 海人の刈る藻

第76段 小塩の山

そのなかで、最高なのが、「第6段・芥川」であろう。


②『伊勢物語』第6段・芥川


前半

 むかし、男ありけり。女のえ得まじかるけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗みいでて、いと暗きに来けり。


(現代訳)昔、男がいた。女で、手に入りそうになかった人を、永年、言い寄り続けたが、ついに盗み出して、とても暗い所へ来た。<男の一方的意思だけで、女をかついで盗み出したわけではなかろう。女の同意もあったろう。つまり、駆け落ちである。女は高貴であるため、外出は輿か牛車である。地面を歩いたことなどないのだ。したがって、男がおんぶせざるを得ない。季節はいつだろうか。桜の季節かな……、夜桜の下、美男子が美女をかついで走る、実に美しい絵になるなぁ……。紅葉の季節かな……、それも美しい絵になるなぁ……。


 なお、「よばひ」は、「呼ばふ」「婚ふ」の連用形である。当時は、男が女のもとへ通うのが一般的婚姻形式であった。しかし、嫁入り婚の時代になると不道徳な行為とされ「夜這い」の意味に変質した。


 芥川といふ河を率(ゐ)ていきければ、草の上に置きたりける露を、「かれは何ぞ」となむ男に問ひける。


(現代訳)芥川という川にさしかかったとき、(夜の闇の中に)草の上におりていた(キラキラ光る)露を、「あれは何ですか」と男に尋ねた。


 箱入り娘、深窓のご令嬢は、草の葉の露も知らない。それぐらい高貴なお育ちなのだ。芥川は平安京から20キロの距離にあるから、女を背負って20キロは、無理じゃないの……という話もあるが、『伊勢物語』は事実を克明に描いた歴史書ではなく、「歌物語」である。歌が中心で、いわば歌の説明文である。だから、在原業平と藤原高子のドラマのなか、矛盾したことが、いくらでもある。前段で、「年を経てよばひわたりける」と書かれてあるが、永年ではなく、事実は、数ヵ月である。


 ゆく先おほく、夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる倉に、女をば奥におし入れて、男、弓、やなぐいを負ひて戸口にをり、はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。


(現代訳)駆け落ちの目的地はまだ遠く、夜もふけてしまったので、(そこが)鬼がいる所とも知らないで、雷(=神)までも大変に鳴り響き、雨も大変に降りだしたので、あばらやの倉に、女を押し込んで、男は、弓とやなぐいを背負って戸口に立った。はやく夜が明けないかなと思いながらいたところ、鬼はすばやく一口で(女を)食べてしまった。


 鬼の正体は、追手である。色男は武勇にはとても弱かった。女を追手から守るべく戸口に格好よく立ったが、いとも簡単に、女を奪い返されてしまった。


「あなや」といひければ、神鳴るさわぎに、え聞かざりけり。


(現代訳)女は「あれー」と叫んだが、雷の音が騒がしく、(女の声を)聞くことができなかった。


 雷が鳴り、雷が光り、雨が降り、追手に連れ去られつつ美女は、男に向かって叫ぶ……、映画ならば最高のクライマックスなのだが、いかんせん色男は弱かった。雷の光に見えた女の顔に男は何を思ったか、男の顔に女は何を思ったか。


 やうやう夜も明けゆくに、見れば率(ゐ)て來し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。


 白玉か 何ぞと人の 問ひし時 つゆとこたへて 消えなましものを


(現代訳)ようよう夜が明けてゆくに、見れば連れて来た女もいない。地団太を踏んで泣いたけれど、どうしようもない。


「白玉か、何ですか」と女が、問われたとき、「露です」と答えて、私も露のように消えてしまえばよかったのに(そうすれば、こんな悲しい思いをしなくてすんだのに)。


後半

 これは、二条の后の、いとこの女御の御もとに、仕うまつるようにてゐ給へりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みておひて出でたりけるを、御兄堀河の大臣、太郎国経の大納言、まだ下臈(げろう)にて内裏へ参り給ふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、とどめてとりかへし給うてけり。それをかく鬼とは言ふなりけり。まだいと若うて、后のただにおはしける時とや。


(現代訳)この話は、二条の后(藤原高子)が、いとこの女御の御もとに仕えるようにしていたのを、容姿が非常に美しくいらっしゃったので、男が盗んで背負って飛び出したのを、御兄上の堀川大臣藤原経基、その長男国常の大納言が、まだ身分が低くて、内裏へ参上されたとき、ひどく泣いている人がいると聞きつけて、引き留めて(高子を)取り戻したのだった。それを、鬼と言ったのだった。高子がまだとても若く、清和天皇のもとに入内する前のことであったとか。


 後半は、いわば前半のネタばらし。「なんか、スッキリしないネタばらし」であるが、読者の想像力に任せるしかない。


 当時のトップ実力者は、藤原良房である。藤原高子の兄・藤原経基(836~891)は、良房の養子となり、ポスト良房の地位を獲得し、やがてトップ実力者となる。重要な点は、高子の駆け落ちは、兄・基経によって終焉にさせられたことである。


③高子、女御となる


 私は、駆け落ち令嬢のその後に、とても興味を持っていた。その後の心の動きは、どんな模様だったのか。すくなくとも高子は、心の傷を負って酷い後遺症に悩むということはなかったようだ。少なくとも、駆け落ちする、すごい勇気があった。基本的に、並外れた強さを秘めていたのだ。


 859年に、高子18歳、五節の舞姫の艶姿を披露した。


 そして、駆け落ち事件。世間の目は厳しい。スキャンダルだけではなく、「入内=権力」であるから、権力闘争の面からも、高子の入内は危ぶまれた。しかし、


 866年、高子25歳、高子は入内し、清和天皇の女御となる。


 869年1月、高子27歳、男子誕生。この男子は、生後3ヵ月で皇太子となる。


 876年、この男子は9歳で清和天皇から譲位され、第57代・陽成天皇となる。

 

 高子は、皇太子の母となり、そして天皇の母となったのだ。それなりの権力、わがままも許される。高子は、恋の蜜だけではなく、権力の蜜を知るようになっていった。そして、かつての恋人、在原業平との関係復活である。高子の意向で、業平は蔵人頭となり陽成天皇の近くで仕えるようになった。


(ア)『古今和歌集』294番の在原業平の歌は、百人一首にもある有名なものです。秋の美しい景色を詠んだわけですが、『古今和歌集』の詞書(添え書き)を合わせ読むと、別の思いが湧いてくる。


 二条の后(きさき)の春宮の御息所と申しける時に、御屏風に竜田川にもみぢ流れたるかたをかけりけるを、題によめる在原業平


 ちはやぶる 神世もきかず 竜田川 唐紅に 水くくるとは


(現代訳)二条后(藤原高子)が、皇太子の母と呼ばれていたとき、屏風絵に竜田川に紅葉が流れている様子が描かれている、それを題にして詠んだ。


「ちはやぶる」は「神」かかる枕詞。(不思議なことが起きる)神代でも聞いたことがない。竜田川(紅葉の名所)が、紅色に、水一面に染まるとは。


 高子と業平の2人だけのテレパシーは、単なる風景の歌ではない。無謀ながら、強引解釈を試みます。(神代は昔の意味もある)昔を思い出そうよ。あのときは竜田川でなく芥川でしたね。雷(神)の光の中、あなたの口の紅が、すべてを染めていました。雷の光の中のあなたは本当に美しかった。


(イ)『古今和歌集』871番の歌も、似たようなものであろう。


 二条の后(きさき)のまだ春宮の御息所と申しける時に、大野原にもうでたまひける日によめる在原業平


 大原や をしおの山も 今日こそは 神代のことも 思ひいづらめ


(現代訳)大原の小塩の山も、今日の参詣にあたって、神代のことを思い出しているのでしょう。


 なお、『伊勢物語』第76段は、『古今和歌集』871番とほぼ同一の内容です。『伊勢物語』では、参詣の際、御息所の御車より褒美をいただいて詠んだ、とありますから、高子と業平は直接対面のシーンで詠んだのである。したがって、次のように強引解釈できる。私(業平)は昔のことを思い出しています。今もお慕い申し上げています。


(ウ)二条后(藤原高子)の歌は、『古今和歌集』4番の一首のみである。詞書(添え書き)は、「二条后の春のはじめの御歌」とあるだけである。


 雪のうちに 春は来にけり 鶯(うぐいす)の こぼれる涙 今やとくらむ


(現代訳)雪が積もっているが春が来た。鴬の(寒さために)流した涙は(凍っていたが)今は溶けているでしょう。むろん、季節だけの意味だけではないだろう。駆け落ちも、今となっては、いい思い出です、って感じかな。


 二条后(藤原高子)は、かつての恋人を傍に置いて、幸せな気分でいたのでしょう。しかし、880年7月在原業平死去(56歳)、同年12月清和上皇崩御と不幸が続いた。


④兄・藤原基経との対立、そして僧侶との密通


 藤原北家のトップ実力者・藤原良房は872年に没していた。その後を継いだのが、藤原基経(高子の兄)である。


 権力は、清和上皇・藤原基経・二条后(藤原高子)の三者の微妙なバランスの上にあった。二条后(藤原高子)の精神バランスも在原業平の存在で良好であった。


 しかし、在原業平死去、清和上皇崩御は、権力バランスと二条后の精神バランスの2つを崩した。


 清和上皇の崩御によって、それまでは藤原基経と二条后は、ともに幼帝・陽成天皇を補佐していた。ところが、清和天皇の崩御によって、2人は対立状態になる。そもそも、兄・基経は高子と業平の恋愛を引き裂いた男だ。その憎悪がメラメラと頭を持ち上げたのかもしれない。


 二条后は、陽成天皇を守ろうとした。母であるから当然だが、自分の権力維持のためにも陽成天皇を守らねばならない。


 基経は、「陽成天皇――二条后」は、自分の権力奪取のためには障害物と認識した。二条后は権力の蜜をたっぷり味わってしまっていたのだ。


 この対立抗争の説明は省略して、結果は基経の勝ちとなり、884年、陽成天皇は譲位し、光孝天皇(第58代、830~887、在位884~887)が即位した。二条后の面子を立てるため、二条后(43歳)は皇太后となった。


 896年、二条后(55歳)が建立した東光寺の座主善祐と密通した嫌疑が持ち上がった。その結果、皇太后の地位を廃される。


 単なる好色密通なのか。駆け落ち令嬢は、55歳になっても、身の破滅と表裏一体の刺激的色恋が大好きということか。


 それとも、皇太后の地位をめぐる政治的陰謀なのか……。あるいは「好色密通プラス政治的陰謀」か……。


 910年、高子は69歳で没した。


 943年、朱雀天皇の詔で、復位した。


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。