一般的な評価は、次のようです。
・いち早く航空機の将来性を認識し航空部隊の育成に尽力した。そして、巨大戦艦「大和」の建造は時代錯誤と論じた。しかし、「大和」は建造され、自分が連合艦隊司令長官として乗り組むことになってしまった。
・「不戦海軍」のエースとして、日米開戦に直結する日独伊三国同盟に猛反対したにもかかわらず、連合艦隊司令長官として日米戦争の指揮を執らねばならなかった。
だから、国運を決する大テーマに直面し、自分が正しいとする方向ではなく、間違っているとする方向へ、やむなく自分の身を置かざるを得なかった——「悲劇の英雄」である。しかし、単に「悲劇の英雄」とノスタルジーに思うだけでよいのであろうか。
(1)アメリカ勤務
明治17年(1884年)、山本五十六(旧姓は高野)は新潟県長岡で誕生した。明治維新の戊辰戦争では、長岡藩は朝敵側で五十六の父も兄も官軍(薩長)と戦っている。そのことの五十六への影響であるが、ひとつ思うことは、海軍の重鎮・先輩は東郷平八郎を代表として薩摩出身者が大半である。薩長出身でない五十六にとっては、海軍の伝統的意識(大艦巨砲主義、艦隊決戦主義)から比較的自由だったかもしれない。
さて、海軍兵学校32期、海軍大学校14期卒業。日露戦争の日本海海戦(明治38年、1905年)では、左手の中指と人差し指を喪失する。
五十六は第1次世界大戦(大正3〜7年、1914〜1918年)の後、大正8年(1919年)5月〜10年(1921年)7月、大正15年(1926年)1月〜昭和3年(1928年)3月の2回、アメリカ勤務をしている。アメリカ中を見て回ったが、特にアメリカの油田地帯の光景は脳裏に焼きついたようだ。日本唯一の石油産地である新潟出身の五十六にすれば、日米の油田の規模を比較すれば、否応なく国力の格差を実感できたのである。
余談ながら……、
五十六は異常なほど賭け事が大好きで、将棋、囲碁、麻雀、トランプ、ルーレットとなんでも金銭を賭けた。「別の人生があったら?」と尋ねたら、「プロのギャンブラー」と答えたという。
また、新橋・築地の特定女性と極めて深い仲となり、戦争中でも、せっせと高校生のようにラブレターを出している。
それから、何かあるとすぐ逆立ちする癖があり、また、やたらと女性をおんぶする癖の持ち主である。
(2)条約派と艦隊派
大正11年(1922年)、ワシントン海軍軍縮条約が締結され、主力艦保有比率が、英・米5、日3(対米比率6割)が定められた。このことによって、海軍内部に対立が発生し、次第に「条約派」と「艦隊派」の派閥が形成されていく。
当時、海軍はアメリカを仮想敵国として、対米比率7割の八八艦隊構想(戦艦8隻と巡洋戦艦8隻が根幹)に邁進していた。しかし、八八艦隊が完成すると維持費が国家予算の3分の1を占めるという財政上の壁に突き当たり、八八艦隊構想を放棄せざるを得なかった。したがって、対米比率6割の軍縮条約をのむことは「仮想敵国アメリカ」を放棄する決心でもある。
軍縮条約締結のためワシントンにおもむいた海軍大臣加藤友三郎は、「金がなければ戦争はできない。その金はどこより得べしや。米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかるに、その米国が敵であるとすれば、その途がふさがれる。結論として、日米戦争は不可能」と断じている。すなわち、日米不戦、「不戦海軍」の大方針を明らかにしたのである。この系列の人脈に、岡田啓介、米内光正、山本五十六、井上成美らがいる。
こうした「条約派」は、「艦隊派」からすれば、対米弱腰論とみなされた。また、言論統制のため、真実の情報から遮断されていた世間は、「弱虫海軍」と感じた。
大正12年(1923年)、加藤友三郎が病死すると、対米強硬派の「艦隊派」の勢力が大きくなっていく。
さらに、昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮条約では、英・米・日の補助艦保有量の制限(対米6割)が合意されたが、この時、統帥権の干犯であるとして、条約推進派は囂々たる非難が浴びせられた。なお、ロンドン会議では、五十六は次席専門委員として働いている。
さて、ワシントン海軍軍縮条約は昭和11年(1936年)に有効期限が到来する。ロンドン条約も昭和10年(1935年)に期限が来る。そのため、昭和9年(1934年)9月からロンドン海軍軍縮会議予備交渉が開始され、五十六は海軍側主席代表に任命された。
五十六は、無条約状態(→無制限建艦競争)は、経済力が低い日本の亡国に直結すると認識していた。したがって、粘りに粘って交渉をまとめようとした。だが、結局は不調に終わり、世界は無制限建艦競争時代へ進行していく。五十六自身は交渉不調を極めて残念がったが、世論からは大歓迎された。五十六の心境いかに……。
(3)航空機と巨大戦艦「大和」
海軍内の艦隊派は着実に勢力を増し、帰国した五十六は約1年間、いわば「窓ぎわ族」となっていたが、昭和10年(1935年)12月に海軍航空本部長に就任した。
ところで、五十六と航空機の因縁は、これよりもずっと早い。
第1回のアメリカ勤務を終えた大正10年(1921年)には、当時は奇抜な理論である「航空第一主義」「石油なくして海軍なし」をさかんに力説している。その頃の航空機は未だ軍事力として認知されていないし、軍艦の燃料も石炭から石油への移行途上であった。ただし、アメリカの海軍関係出版物には、「制空権」「航空国防」という言葉が漠然と広がっていたから、五十六はそれらの論文を読み漁っていたに違いない。
なお、陸軍で航空機の将来性を見抜いていた人物としては、石原莞爾がいる。石原は大正11年(1922年)頃から「これからの戦争は平面ではなく空中をふくめた立体戦争になる」と断言し、さらに、「強国は戦争トーナメントを続け、最後には、2大超大国による最終戦争で幕となる」という予言者的戦略思想で注目され始めていた。
ともかくも、五十六は大正13年(1924年)に霞ヶ浦海軍航空隊の副長となり、約1年3ヵ月間、霞が浦の航空隊とともに生活する。海軍の中でも、いわば「居候的存在」の航空隊は、五十六本の指導によって、新時代は航空機の時代である自信を持ち、五十六への愛着を深めた。
2度目のアメリカ勤務を終えて、昭和3年(1928年)12月に航空母艦「赤城」の艦長となり、約1年間務める。その後、海軍省軍務局の勤務となり、昭和5年(1930年)のロンドン会議に随行。帰国後約3年間は海軍航空本部技術部長、昭和8年(1933年)に第1航空戦隊司令官となる。そして、昭和9年にロンドン海軍軍縮予備交渉の首席代表となった。
こうした経歴からも推察できるように、五十六の頭脳の中では、いつの頃か、海軍とは空母と航空機が中心になるべきで、大艦巨砲主義は時代遅れと意識するようになった。少なくとも、昭和10年(1935年)12月の海軍航空本部長に就任した時には、完全な信念になっていたようである。
しかし、五十六の信念は少数派であった。日本海軍は栄光の日本海海戦の記憶が強烈で、海軍の神髄とは、「戦艦と戦艦が大砲を射ち合うこと(大艦巨砲主義)」と信じ込んでいる。もっとも、これはアメリカでも同じようなものであった。なぜなら、歴史上、未だ、航空機で沈められた戦艦は1隻もないから、仕方のないことかも知れない。
無条約時代(→無制限建艦競争時代)を目前にひかえ、巨大戦艦「大和」「武蔵」の極秘建造計画が進められた。五十六は猛反対したが、結局は五十六の意見は敗退した。
海軍内部で、「世界の3馬鹿、万里の長城、ピラミッド、戦艦大和」とささやかれるようになったのは、五十六の死後のことである。
(4)米内・山本・井上ライン
陸軍内部では、大正10年(1921年)頃から「陸軍を改革して、改革された陸軍が中心となって国家を改造しよう」という思想が急速に広まっていった。そして、陸軍内の薩長藩閥追放と「宇垣軍縮」と呼ばれる陸軍の改革が実現する。次は、「陸軍が中心となって国家改造だ!」となった。陸軍内の派閥は漸次、「統制派」と「皇道派」に分かれたが、基本的に「陸軍が中心となって国家改造だ!」に変わりない。
これに反して、海軍は、政治に口出しするのは海軍大臣1人、という伝統が濃厚であった。
昭和11年(1936年)の2・26事件のあとに成立した広田弘毅内閣では、五十六は海軍大臣を補佐する海軍次官となる。しぶしぶ引き受けたとされているが、陸軍の政治介入を苦々しく思っていたに違いない。ともかくも、これ以後、五十六は、広田・林・近衛・平沼の4代にわたる内閣の海軍省次官を連続して務めることになる。
陸軍大将の林銑十郎が首相になると、海軍大臣に米内光正が就任した。これは、五十六が担ぎ出したものである。五十六は次官になって政治の中心に位置するようになると、
➀陸軍の横暴は日米開戦に向かう
②陸軍に対抗できるものは海軍だけ
③それには、海軍内の「艦隊派」を中心とする対米強硬論者・陸軍同調者を押さえ込み、海軍を一枚岩に
④そのために、米内を海軍大臣に
と考えたのであった。
米内・山本ラインは、軍務局長に井上成美をあてた。そして、「艦隊派」のボスであった末次信正を海軍予備役に編入、すなわち軍人を引退させて海軍の一本化を果たした。
なお、米内・山本ラインは日華事変不拡大の方針でのぞんだが、これは不成功となった。
(5)日独伊軍事同盟
さて、すでに昭和11年(1936年)に日独防共協定が結ばれていた。翌年には、イタリアも加わった。この日独伊防共協定の内容は「ソ連共産主義に反対する」程度のもので、さほどのものではない。しかし次第に、これを発展させて軍事同盟締結を、とする動きが活発になり、政治の最大テーマに浮上した。
ドイツと軍事同盟を結べば、英・米と完全に敵対することになり、日米戦争の可能性が急上昇する。それゆえ、海軍と外務省は徹底的に反対したので交渉は進展しなかった。
「枢軸派」の陸軍や右翼は、五十六が反対派の中心人物であることから、さかんに脅迫・攻撃を加えた。五十六暗殺は現実問題となり、五十六自身も昭和14年(1939年)5月に遺書を書いたくらいだ。
昭和14年8月、突然、ドイツとソ連は「独ソ不可侵条約」を締結し、「日独伊防共協定」を無意味なものにしてしまった。平沼首相は「国際情勢は複雑怪奇である」という文句を吐いて辞職した。
米内や五十六は、これで「ソ連共産主義なんかと手を結ぶドイツとの軍事同盟の芽はなくなった」と判断した。そして、米内は五十六を右翼の暗殺から防ぐため、昭和14年8月末、連合艦隊司令長官に就任させた。海の上の軍艦の中なら暗殺は防げるからである。
五十六が、9月3日のドイツ軍のポーランド進撃による第2次世界大戦勃発を聞いたのは、旗艦「長門」の上であった。9月4日に成立した阿倍内閣は「今次欧州戦争勃発に際して帝国は之に介入せず専ら支那事変の解決に邁進せんとす」と声明したので、山本は安心して長官生活を楽しんだ。
さらに、阿倍内閣の後は米内内閣(昭和15=1940年1〜7月)であったから、三国軍事同盟の可能性はゼロ。五十六の優雅な長官生活は続いた。五十六が「長門」に大勢の芸者を連れ込んだという、愉快なエピソードもあるくらいだ。海軍は戦争なんか少しも思っていない、というアピールだったかもしれない。
ところが、昭和15年6月、フランスがドイツに降伏、イギリスの敗北も目前……、陸軍や右翼らの「枢軸派」は、再び三国軍事同盟を叫び出した。「勝ち馬に賭ける」「バスに乗り遅れるな」の心境なのである。
昭和15年7月、陸軍は陸軍大臣を米内内閣に送らないという横暴な手段によって、米内内閣を打倒した。
次の第2次近衛内閣では、東条英機が陸軍大臣、松岡洋右が外務大臣となった。松岡は「松岡旋風」と呼ばれた大人事異動によって外務省を「枢軸派」でかため、昭和15年9月、日独伊三国軍事同盟に調印。その間、五十六は三国軍事同盟反対の意見書を提出し、また海軍首脳会議で断固反対を叫んだ。しかし、その時の海軍大臣、海軍次官は温厚篤実だけが長所の人物で、「本音は反対だが、やむなく……」「海軍が反対すると近衛内閣は総辞職かも……」といった、その場の雰囲気に流される事なかれ主義で、あっさりと三国軍事同盟に賛成してしまった。五十六は激怒して「長門」へ帰った。
(6)なぜ、「負ける」と言わなかったのか
五十六は日米開戦に反対だった。しかし、「軍人の性」とでも言うべきか、もし、日米開戦となったら、「どう戦うか?」を考えていたのだろう。
海軍の伝統に則した対米作戦は次のようなものだった。
海軍はフィリピンを攻略する。ハワイの米艦隊は奪還のためフィリピンへ向かう。マーシャル、マリアナ、パラオなどの日本基地から航空機と潜水艦が出撃して米艦隊を攻撃し、その勢力を漸次減少させる。漸減した米艦隊と日本連合艦隊は、日本近海で遭遇。大海戦で撃滅させる。
しかし、五十六は昭和16年(1941年)の初めには、真珠湾強襲を意図していた。この作戦は、ほとんどの海軍幹部から投機的すぎるとして反対されたが、五十六は強引に進めた。日米開戦は勝ち目ゼロ。どうしても開戦するならば、開戦と同時に、奇襲によってアメリカの主力に大打撃を与えねば……と考えたのだった。
昭和16年9月、山本は近衛から尋ねられた。
「もし、日米交渉が決裂したら、海軍の見通しはどうですか?」
「1年か1年半は存分に暴れてご覧に入れます。しかし、その後のことは、全く保証できません」
後年、井上成美は、「なぜ、絶対負けます、と言わなかったのか」と残念がった。
ここを、後世の人は考えなければならない。通り一遍の「悲劇の英雄」で済ませてはいけない。トコトン突き詰めると人間の哲学的命題に到達する。人間は善と悪を合わせ持つ。「自己犠牲であっても他者へ奉仕する愛」と「他人への暴力性」の2つを持つ。土壇場ギリギリのところで、どちらを選ぶか。山本五十六の生涯をたどっていると、ほとんど善(愛)であった。しかし、ギリギリの場面で、悪(暴力性)が出てしまった。
真珠湾強襲を立案しつつも、なお、日米開戦を避けたかったことは確かだ。10月の手紙には「残された道は天皇の決断のみ」と期待をかけている。また、11月の作戦会議では「ワシントンでの日米交渉が成立したら、たとえ攻撃機の母艦発進後でも引き揚げ命令を出す」と述べ、何人かの幹部が「実際問題、そりゃ無理です」と不満を述べたら、「この命令ができない指揮者は即刻辞表を出せ」と怒った。
しかし、万一の期待も虚しく、12月8日未明、南雲中将の機動部隊は真珠湾奇襲を成功させる。五十六はその時、瀬戸内海で停泊中の旗艦「長門」の中にいた。幕僚たちは喜色満面であったが、五十六はひとり終始黙り込んでいたという。
奇襲開始時刻が宣戦布告通告時刻よりも55分早かったために、「騙し討ち」の結果となった。ところが、ルーズベルト大統領は真珠湾奇襲計画を事前に承知していたとする説が結構根強い。この説は日本人にとっては「騙し討ち」の汚名をいささかなりとも払拭できるから心地よい。また、ハワイ地区の米軍人も「油断していたバカ軍人」から「ルーズベルト戦略の生け贄」へと汚名返上できる。であるから、真実はどうあれ、効能が大きい説は流行るものである。
(7)有頂天の海軍
12月10日、サイゴンの海軍航空隊がイギリス戦艦2隻を轟沈させた。昭和17年(1942年)1月11日、海軍の落下傘部隊がセレベス島を占領した。航空機優位は証明された。
皮肉にも、この頃、巨大戦艦「大和」が完成し、連合艦隊司令部は「長門」から「大和」に移った。
さて、いくつかの海戦やら空母からの航空機爆撃があり、いわば連戦連勝。そして、昭和17年5〜6月のミッドウェー作戦となる。
有頂天とは恐ろしいもので、情報管理はデタラメとなっていた。ミッドウェー作戦の内容は極秘であるにもかかわらず、呉の床屋ですら知っていた。当然、ハワイでは誰もが日本艦隊がミッドウェーに来ることを知っていた。
そんな状況で、連合艦隊の全勢力がミッドウェーに向かった。五十六が乗る「大和」も向かった。それこそ、史上最大の大艦隊で、アメリカ太平洋艦隊よりも、2〜3倍も大きかった。
この頃には、アメリカの暗号読解能力は完成しており、アメリカ海軍は準備万端整えて待ち受けていた。有頂天、ツキ、総合的情報能力がミッドウェーの勝敗を決めた。
(8)「餓島」「鉄底海峡」
再び、「大和」は瀬戸内海に停泊する。
この頃、南太平洋の最前線はニューギニア、ニューブリテン(ラバウルがある)、ブーゲンビル、そしてツラギとガダルカナルへと移った。
最前線ガダルカナルに海軍飛行場が8月初頭に完成したが、突如、アメリカ海兵師団がガダルカナルとツラギに上陸し、これを占領した。奪還しようとする日本軍との間に、海と陸と空で大激戦が開始された。
「大和」もトラック島に本拠を移し、五十六はそこで指揮を執ることになった。
ミッドウェーでは、日本は空母4隻と航空機225機、アメリカは空母1隻と航空機150機を失った、だけだった。しかし、このガダルカナルこそは、両軍が真正面からぶつかる総力を費やす天王山となった。両軍は恐ろしい戦略的ミス、でたらめな作戦が命令され、南海の楽園は「地獄の戦場」と化した。
日本は、その島を「餓島」と呼んだ。
アメリカは、その海を「鉄底海峡」と呼んだ。海底には、約50隻の軍艦と数え切れない航空機が沈んでいる。
人命と兵器の莫大な消耗戦が、約6ヵ月続いた。
消耗戦となると、決め手は経済力である。山本は昭和17年12月にガダルカナル撤退を決意し、翌18年(1943年)1〜2月に救出撤退作戦がなされた。
余談であるが、ミッドウェーやガダルカナルに関して、軍事関係者は山本五十六は子どもにも劣る戦略ミスをした、と指摘する。彼らの山本五十六愚将論は一理あるかも知れない。考えれば当然で、五十六は軍人ではあるが、実際は政治家であった。戦場のプロではないのだ。日本の硬直的官僚組織の代表例で、平時の役職がそのまま非常時の役職に横滑りしてしまう。平時に優秀な人材は、案外、非常時には劣る場合ある。逆に、平時は奇人・変人だが、非常時には驚異的な才能を発揮する者もいる。戦争の場合、こうした異能者を抜擢しないと敗北する。
(9)山本神社に反対
4月に入り、約2週間の予定で、山本はトラック島からラバウルへ身を移し、海軍航空隊を激励することにした。山本は航空隊が出撃する時、必ず白い軍装で帽子を振りながら、一機一機見送った。
4月18日、ラバウル日程の最後に、ガダルカナルに近いショートランド島の基地へ日帰りで激励に行くことになった。周知のとおり、暗号が解読されていたため、途中で撃墜される。
昔からの憶測では、五十六は死ぬつもりでシュートランド視察を企画したというものがある。連合艦隊司令長官が戦死すれば、日本国民は「戦争に負ける」とさとり、終戦が早まるのではないか……そう願っていたのではないか、というものである。
そうした憶測はさておいて、事実は、日本国指導者は山本五十六の死を戦意高揚のため、大々的な国葬を実施した。
山本神社建立の案も出た。米内光正は、それだけは絶対に反対して譲歩しなかった。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。