メディアスクラムという言葉がある。特定の取材対象者にメディアが殺到し、精神的圧迫を与えることを指す。熊本大地震の取材現場でもこのことが批判を呼んでいる。


 週刊現代が『崩れそうな家の前で「待機」 何を喜んでいるのか! ハシャギすぎだよ、テレビ局』という特集記事をまとめている。煌々とライトを照らして就寝時の避難所に押し掛ける報道陣。給油を待つガソリンスタンドの行列に割り込んでしまうテレビの中継車。被災地一帯のホテルがメディアに占拠され、被災者が泊まろうとしても部屋が取れない、という事態も起きているという。


 今週の現代は、作家・伊集院静氏による連載コラムでも『余震とテレビのおそろしさ』と題して、違った角度から災害報道の問題を取り上げている。東日本大震災を体験した伊集院氏は、自身の被災時には《電気の停止していた1ヵ月半近く、自分たちがどう報道されていたかをまったく知らなかった》という。


 そのうえで今回の地震報道を見て、氏が指摘するのは、取材現場でのトラブルに留まらず、災害報道の枠組み全体に感じ取った違和感であった。明るいスタジオで神妙な面持ちの出演者が被災地を語る光景そのものが、「他人事」「見端の良いニュース」として、災害を遠巻きに“観戦”しているようにしか映らないというのである。


 伊集院氏の指摘は根源的な問題で、改善策は即座には思い浮かばない。被災者向け情報を必要としない遠隔地で、どの程度、災害報道をすべきか、という量的な問題にもかかわってくる話だが、意見はさまざまに分かれるだろう。被災地でのメディアスクラムという問題も、こうした特集記事で批判するのはたやすいが、現代の記者にしたところで、被災者から見れば“多すぎるマスコミ”の一部を形成しているのだ。


 報道機関にはそれぞれに、巨大災害時の取材マニュアルが存在する。しかし、近年の大災害の多さから見て、さらにはインターネットという手段の登場も鑑みて、自分たち一社の対応でなく、被災地とメディア全体の関係、という観点から、主要メディアを横断するルール作りを模索する時期に来ているのかもしれない。


 週刊文春は、自社で刊行する横山秀夫氏作『64』が映画化されるタイミングで、主演俳優・佐藤浩市氏と横山氏の対談を載せていて、これと抱き合わせの企画として、『警察官が本当に好きな警察小説』と銘打ち、ベテランと若手刑事、そして公安警察官の3人が匿名でさまざまに警察小説を語り合っている。


 どんな職業の人もそうだろうが、自分が所属する世界が描かれた小説・映画に関しては、どうしても細部のリアリティに目が向くものである。あまりにもそれが欠けている場合は、どんなにストーリー展開が面白くても、「こんな話はあり得ない」と興醒めしてしまう。


 この座談会によれば、やはり警察小説の第一人者たる横山氏の小説は、本職の警察官にとっても読み応えがあるらしい。元地方紙記者の横山氏には、新聞記者を描いた小説にも『クライマーズハイ』という名作があり、このジャンルでも定評がある。また、麻生幾氏の『ZERO』や乃南アサさんの『ボクの町』についても、公安警察や派出所勤務をリアルに描いた作品として、好印象が語られている。


 この特集を見てふと思ったのは、弁護士が選ぶ法廷小説、医師が選ぶ医療小説、探検家が選ぶ探検小説等々、同様の手法で本、あるいは映画を紹介する座談会は、なかなかいいのではないか、ということだ。書評家による通常の読書ページとはまた違った形で、「読んでみたい」という気持ちを湧き立たせてくれる。

 
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三山喬(みやまたかし) 1961 年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。1998年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取 材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。2007年に帰国後はテーマを 広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って」 (ともに東海教育研究所刊)など。