タブーをおかしてシニア世代へ苦言


 沖縄を訪れるたびに立ち寄る「現場」がある。名護市辺野古の米軍基地、キャンプシュワブのゲート前だ。普天間基地の移設先として海上に新設される米軍基地に反対する座り込みが続く、いわば反基地闘争の最前線である。

 

 那覇市から沖縄自動車道を経由して車で1時間半ほどの海岸沿いに、フェンスで囲まれたキャンプシュワブがある。そのゲートの反対側にある歩道脇に、いくつものテントが張られている。そのなかほどにある天幕の下の斜面に、木製の長椅子が幾重にも並んでいる。座り込みの合間に休憩したり歌を歌ったり、集会をしたりする場所だ。


 このゲート前での抗議行動が始まったのは2014年7月というから、5年近くが経とうとしている。当初はマイクを使ったアジテーション中心の運動だったが、建設資材を搬入するトラックの前に座り込んだことがきっかけで、以来ずっと続いている。


 1月中旬、この辺野古を訪ねたときは、座り込みは日に3回行われていた。名護市安和にある琉球セメントの桟橋で土砂を積み込んだダンプカーが、100台前後の隊列を組んでキャンプシュワブに日に3度、向かうからだ。

 

 私が到着したのは午前10時ごろだ。朝の座り込みを終えて、デモ隊がテントの長椅子で休憩をしている。そのなかのひとり、戦前生まれで沖縄戦を経験しているという81歳になる男性が、マイクを握った。「メロディだけは覚えた」と歌集を手に歌い始めた。


「島を耕すように/艦砲射撃の雨が降り/本当の敵は誰なのか/尊い命は帰らない/ドンパチやって負けた国/祖国と呼んだあの国は/なぜだかこの島放り出し/アメリカよりも遠い国/流れ流されてどこまでも/沖縄よどこへ行く/戦が教えてくれたのは/愚かさだけなのに」


 12万人もの沖縄県民(ウチナーンチュ)が死んだ地上戦を経験したからこそ知る平和の尊さと、煮え湯を飲まされてきた本土への屈折した思い。それをドレミファの音階からレとラを抜いた5音階で奏でる独特の琉球音階に乗せて切々と歌う。

 

 歌の披露に続いて、赤ちゃんを抱きながら宜野湾市からやってきた若いお母さんが指名された。お腹の中に3人目の子どもを宿しているこの女性は、2回目の参加だという。


「先々週は3歳の長男と来ました。子どもも『ヘノコ』という言葉は知っていて、テレビを見ていて『まだ海を汚しているの?』って聞くから、『そうだよ』って。今日は座り込みには参加できないけど、応援しにきました」


 あと20分ほどで、琉球セメントで土砂を積み込んだダンプカーの隊列が到着するとの連絡を受けて、正午にゲート前に移動する。その数は約30人。ほとんどが70歳前後のお年寄りで、うち2割ほどが女性だ。


ゲート前での強制排除に緊張


 閉じられたゲート前には、警備員20人ほどが横一列になって警戒している。デモ隊のリーダーの「今日もがんばりましょう!」という掛け声に促されて、市民らは警備員の前に折り畳みの椅子を2列に並べてゲートを背に座り込む。ダンプカー到着までの間、みんなで歌を合唱するなど笑顔のこぼれる和やかな雰囲気だ。

 

 だが、ダンプカーの先頭が到着すると、空気は一変する。どこに待機していたのか、沖縄県警の機動隊員30人ほどがゾロゾロと出てきた。20代の若者がほとんどだ。座り込みのデモ隊に向かい合うように1列に並ぶ。基地に入れないダンプカーが、片道1車線の道路に何百メートルもの渋滞をつくった。


 機動隊が拡声器で「すみやかに移動してください」と呼びかける。けっして威圧的ではないが、緊張が走る。それでも、だれも動こうとはしない。


 すると、機動隊員のひとりが、前列の右端に座っていた男性の顔を覗き込むようにして声をかける。


「立てますか」


 男性は無言で答えない。

 

 すると後ろに回った機動隊員2人が左右の脇を抱える。もうひとりが足を持ち上げて強制排除にかかった。男性は無抵抗で、ひと言も発しない。目を閉じ、何かに堪えているような険しい表情を浮かべる。デモ隊のリーダーが、「県警機動隊員のみなさん、乱暴は止めましょう!」と声を挙げる。男性は約30メートル離れた歩道に運ばれ、檻のような囲いに入れられて、数人の機動隊員に監視される。そして2人目は女性だ。同じように無言でいる女性を機動隊員が3人がかりで抱えていく。全員が強制排除されるのに20分ほどかかった。



辺野古の座り込みの強制排除は、屈辱に違いない。このおばぁ、いつから座り続けているのだろう


 おじぃやおばぁが腕と足を抱えられ、深い年輪が刻まれた顔をこわばらせながら、あられもない格好で運ばれていく。その姿は、何度見ても心が揺さぶられる。みんな70歳くらいだから、沖縄戦を経験していなくても米軍統治下の抑圧された沖縄を知っているはずだ。住居や農地を強制的に取り上げられ、米軍基地に姿を変えていった時期だ。そこには、本土での反基地運動の高まりによって移設された海兵隊の基地も移転してきた。その基地からベトナムに向かって攻撃を加える爆撃機が飛び立っていく。沖縄は戦争遂行のための前線だったのだ。


 その沖縄の本土復帰が決まったのは1972年。平和憲法を冠した日本への復帰運動に力を注ぎ、基地撤去への期待が膨らんだ。だが、基地は残されたままだった。そして1996年。米兵による幼女強姦事件をきっかけに普天間基地が返還されることが決まった。だが、その代替地は県外ではなく、同じ県内の辺野古だった。

 

 なぜ沖縄だけが。


 構造的な差別に晒されてきたシニア世代は、再び尊厳を踏みにじられたことへの憤怒の念を募らせ、反基地運動へと駆り立てられた。その彼らが、この辺野古の地を「現場」と呼ぶのは、ここで身体を張って闘ってきたプライドの表われでもある。その苦難の歴史を生きてきたシニア世代が、若い世代とのギャップという新たな分断に直面しているのは皮肉なものだ。


元山代表のシニアへの苦言の伏線

 

 1月26日、沖縄国際大学の教室で、県民投票に向けての署名集めに奔走した「『辺野古』県民投票の会」が主催する「『民意』はどう反映されるべきか~県民投票に向けて」と題する公開シンポジウムが開かれたときのことだ。後半のパネルディスカッションで演壇に座ったのは、県民投票の会の代表である元山仁士郎さん(27)をはじめとする学生ら若い世代だ。客席には80人ほどが詰めかけ、うち6割以上がシニア世代だ。

 

 司会を務めた同会の副代表の安里長従さん(47)が、代表の元山さんに水を向けた。


「仁士郎は、沖縄の大人に対する怒りを持っている。話しにくいかもしれないが」


 沖縄の貧困と基地問題に詳しい司法書士の安里さんが元山さんと初めて出会ったのは、ちょうど1年ほど前のことになる。県民投票の実施を目論んでいた元山さんと朝まで酒を飲んだとき、元山さんが沖縄のシニア世代への不満を漏らしていたのを覚えていた。


「ああいう大人にはなりたくない」

 

 元山さんは、「シニア世代は闘争という言葉にこだわり過ぎているから、いつまでも基地問題を解決できない」と話していた。同じ考えの人だけが先鋭化していって運動は先細りしていく。若者が運動の扉をたたこうとしても、自分たちが基地問題の歴史を伝えてこなかったことを棚に上げて、若者を「勉強不足」と蔑み、自ら分断をつくっている。安里さんは、元山さんの不満を、こう受け止めた。


 安里さんに促された元山さんは、少し言いにくそうにマイクを握った。


「私たちが話しづらいのは、(大人から)『お前はわかっていない。もっと勉強しろ』と言われるわけですよね。そうなると話したくもないし、何が勉強のゴールなのかもわからないから、考えたくない、触れたくなくなってしまう。みなさん(大人)も、勉強したり、現場に行って自分の考えを踏んできた。私たちも、これから踏んでいくので、シャットアウトはしないでほしい」


 自分の祖父母ほどの年齢のシニア世代への苦言。それには、伏線があった。


 元山さんらが県民投票への準備を始めていた2018年初頭、辺野古の現場で基地闘争を担っていたシニア世代が、なかなか縦に首を振らなかったのだ。理由はいくつかある。2014年の知事選で基地反対を掲げる故・翁長雄志前知事が当選を果たし、国政選挙でも反対派の勝利が続くなか、「すでに民意は示されている」というのが大きな理由だ。もし県民投票で予想外に基地反対派が少なかったら、運動は一気に下火になってしまうことも懸念された。なかには、あからさまに「何も知らない若僧が」と批判する声も聞こえてきた。


 元山さんらが取り組む県民投票の根っこには、辺野古新基地建設に賛成でも反対でも対立する必要はなく、まずはみんなで基地問題を考えて沖縄県の民意を示したいという願いがある。基地の賛否を巡る「闘争」にこだわりすぎて、かえって分断を招いてしまっているシニア世代へのアンチテーゼでもあった。元山さんには、こういったシニア世代への不満が鬱積していたとしても不思議はない。マイクを握った元山さんは、さらに続けた。


「フェイクニュースを流しているのは50~60代の人たちだと、最近は言われています。私たちが悪いのか、むしろ上の世代の問題じゃないのかとの疑問もある。私たちも話し合っていくので、みなさんも同世代の方々と話し合っていただければ」


 確かに挑発的な発言ではあるが、若い世代の共通する思いを元山さんは代弁してくれたのだ。


 だが、百戦錬磨のシニア世代も黙ってはいなかった。最後の質問コーナーで70代の男性が発言した。


「シンポジウムに不満と疑問を感じました。辺野古の問題について、パネラーの返答は曖昧に聞こえた。辺野古の問題はシンプル。0.6%の国土面積の沖縄に、70%(米軍専用施設での換算)の基地を押し付けて、世界一危険な普天間基地を即時撤去してほしいという要求に、『それなら代わりを出せ』という不条理な要求は通るはずがない。これが原点です」


 やはり苦難の歴史を耐え忍んできた世代の思いは深く、そして厳しい。育った環境が違うから基地に対する考え方や運動の手法が異なるのは当然だが、お互いに歩み寄る余地はないものか。


ゲート前の抗議行動にも大きな変化が


 2015年以来、何度も辺野古の現場を訪ねて気が付いたことがある。ここ1~2年ほど前から、デモ隊の雰囲気が変わってきているのだ。


 2016年12月に、私が辺野古を訪れたとき、マイクを握ったリーダーの怒声に凍り付いた記憶がある。


「お前ら、恥ずかしくないのか! 恥を知れ!」


 米軍基地内で働くウチナーンチュに対して浴びせられた暴言だ。基地建設に反対しているのに、なぜ同じウチナーンチュが基地で働いているのか。そのことへの苛立ちはわかるにしても、彼らにも生活はあるし、さまざまな事情があるのだろう。一律に「恥を知れ!」はいかにも傲慢だ。元山さんらの言う「闘争にこだわるあまりに分断を招いてしまっている」というのは、まさにこういうことなのかもしれない。


 デモ隊の発するあの種の罵声は、闘争現場ではよくあることなのだろうか。本土に居を構える私が安穏とした生活に慣れ親しんでしまい、馴染めないだけなのだろうか。だが、沖縄で知り合ってインタビューした20人近くの若者のほとんどが、辺野古で繰り広げられる反基地運動に違和感を覚えていたことからしても、私の感覚はそう外れているわけではなさそうだ。


「海上からボートに乗って工事中止を訴えたときに、海上保安庁に対して聞くに堪えない暴言を吐いているのを聞いて引いてしまった」(24歳男性)


「友人と一緒に訪れたが、暴言に怖くなってひとりで逃げるように現場を離れてしまった。友だちは二度と呼べない」(31歳女性)


 ところが、今回訪れて驚いたのは、デモ隊のリーダーが県警機動隊員に向けて発した言葉だ。


「沖縄県警機動隊のみなさん、強制排除はなりません! 国の違法行為に目をつぶってはいけません! 通常業務に戻りましょう!」


 敬語を使っているのだ。かつての暴言に近い怒声はすっかり影を潜めている。

 

 その理由をデモ隊の参加者のひとりで、名古屋から辺野古に移住してゲート前に通い続けている男性(68)が打ち明けた。


「リーダーによっては、まだまだ荒い言葉遣いはあるが、攻撃的な言葉が減ってきたのは、若い人の影響もあるんじゃないかな。同じウチナーンチュの沖縄県警の機動隊員を罵れば、分断を印象付けてしまう。若い人たちは、争いごとが嫌いだから。かつては彼らに『こんなことも知らないのか』って、壁をつくってしまっていた。それが若い人が政治参加し始めた昨年の知事選くらいから徐々に変わってきた。彼らが通いやすい環境を心掛ける意識は、私たちの間にも芽生えてきた」


風船とともに「土砂の海に愛と元気を!」


 昨年12月14日の辺野古新基地建設現場での土砂投入があった日、徳森りまさん(31)は早朝から友人と辺野古の米軍基地ゲート前に駆け付けた。琉球大学を卒業後、早稲田大学大学院で国際関係論を勉強し、海外生活の経験もある。昨年9月の県知事選では、玉城デニー現知事の陣営で若者を束ねた人物で、やはりシニア世代の運動方法では、若い世代はついてこないと感じていたひとりだ。


 この日、徳森さんの車には60個の色とりどりの風船が積まれていた。夕方、その風船を手に仲間たちとグラスボートに乗り込んだ。こんな危機を迎えはしたが、そんなときこそ明るく前向きに取り組む必要があると思った。


「土砂が投入された辺野古の海に私たちは愛と元気を投入しよう!」


 立ち入りが禁止される湾内のブイに近寄ると、国に雇われている監視船が近づいてきた。船長は地元の漁師だ。みんなで風船や手を振ると、ふだんなら厳しい顔で警戒している船長が、なんと手を振り返してきた。気持ちが通じたと、みんなで手をたたいて喜んだ。どんな相手でも分断は解消できるはず。徳森さんは、そう信じている。


 シニア世代と若い世代の融合が一気に進むというわけにはいかないだろう。だが、かつては容易に語れなかった世代間の認識のズレを、お互いが認識し始めていることだけは確かなようだ。

(ノンフィクション作家・辰濃哲郎)