早稲田大学を創始した明治の元勲の1人、大隈重信は「人間は125歳まで生きられる」と考え、晩年は健康に気を遣ったという。結局、大隈は2度首相を務めた後、83歳で病死したが、大隈に限らず、長寿は人類の夢であり、病気を克服するための新薬に対する願望も尽きることはない。


 しかし、高コストの新薬を公的医療保障制度の対象にすると、その費用は本人だけでなく、保険料や税金を払っている国民全員が負担することになる。1人の命を伸ばすため、余りに高額なコストを他人に負担させるのは平等かもしれないが、公平とは言えないかもしれないし、その場合は制度の持続可能性も問われてくる。


 寿命の延長か、そのコストをどう負担するか—。答えは見出すのが難しいが、本稿では制度の根幹に立ち返りつつ、この問いに対する答えを考察したい。


◇財政審の議論


 先月4日の財政制度等審議会(財務相の諮問機関)財政制度分科会では、免疫細胞「T細胞」のがん細胞を攻撃する力を高める治療薬「オプジーボ」が話題に上った。


 財務省が公開している議事録を見ると、ゲストとして招かれた國頭英夫氏(日本赤十字社医療センター化学療法科部長)は免疫薬の特徴として「効いている時はどこまで続ければいいかわからない。効いていない時も、いつ止めて良いか分からない。要するに死ぬまで使うのかという話になる」と発言。その上で、体重60キロの人に使用したケースを例示として、1回133万円の薬を2週間に1回投与するため、1年間で必要なコストは3,500万円かかると述べた。


 さらに、オプジーボを肺がん患者5万人に使った場合、その費用は年1兆7,500億円に達するとして、「幻の国立競技場が7つできる。この薬があと2つ出て来ると、日本の防衛予算(約5兆円)が全部飛ぶことになる」「(筆者注:控え目に見ても)6,000億〜8,000億円ぐらいの財源が必要」と指摘しつつ、同様の新薬は次々と開発される可能性にも言及した。


 ここで挙がっているデータは粗い試算であり、妥当かどうか議論の余地はあるかもしれない。しかし、それでも慄然とする数字である。


 では、この負担は誰が払うのであろうか。国民医療費は約40兆円(2013年度現在)であり、その負担割合は国・自治体の税金が38.8%、保険料の本人負担が28.5%、会社が20.3%、患者の窓口負担が11.8%となっている。


 しかし、高額な医療費の場合、上限を2〜8万円程度に抑える高額医療費制度があるため、その負担は税金か、他の国民や事業主が支払う保険料に転嫁される。


 このため、議事録によると財政審の議論では「制度の持続可能性がない」として、「(筆者注:年齢や価格で)総量規制を掛ける必要があるのではないか」「儲かった製薬会社から拠出金を取る方策があるのでは」という議論が出たという。


 こうした新薬に限らず、医療の高度化や技術進歩に伴って医療費が増加している。レセプト(診療報酬支払明細書)を基にした健康保険組合連合会の集計によると、2011年度には血友病患者に対して月額1億円を超えるレセプトが生まれた。


 さらに、高額な医療機器の開発・投資も絡む。医療機器メーカーが高度な医療機器を開発すれば、できるだけ多くの医療機関に導入してもらうように営業するし、購入した医療機関は投資を回収するため、患者の数を増やすか、診療行為の内容を濃密にするようにする。これも医療費を増やす要因として働く。


 つまり、医療費が増えている原因は「高齢化等の自然増」だけでなく、医療の高度化や技術進歩の影響も大きい。


◇財政の論理vs命の論理


 財政だけで医療制度を語れない点が問題の難しさを増幅させる。これを他の制度と比較して考察する。


 日本には医療、介護、年金、雇用、労働災害の5つの社会保険制度が整備されている。このうち、年金と雇用、労働災害は基本的に現金のやりくりだけで完結するため、保険給付の範囲を設定しやすく、介護も保険料の範囲内で保険給付を定める仕組みである。


 しかし、医療の場合、生命や健康に対する国民の欲求が医療費の動向に影響する。医療保険制度は「他人を助けることで自分も助かる」という社会連帯の下、病気や疾病などのリスクをシェアし合う仕組みである。予期せぬ高額な医療費支出こそ、社会の構成員が支えあるべきという考え方は十分に成り立つ。


 さらに、患者ごとの個体差や医師の裁量権が大きいため、必要な医療と不必要な医療の線引きは容易ではない。


 具体的な事例で考えてみる。財政審の議事録を見ると、100歳の患者に高額な薬を投与した事例があるとして、「有史以来の贅沢」という声が出ている。確かに一般論で言うと、「天命を全うしつつある100歳の患者の寿命を101歳にすることに意味があるのか」という思いが去来する。


 しかし、もし患者や家族が「あと1年生きられれば、曾孫の晴れ姿を見られる」と要望した場合、どうなるだろうか。多くの医師は患者のQOLが大幅に下がらない範囲で、何とか手立てを打ちたいと考えるのではないだろうか。そこに新薬が登場すれば、医師が使いたくなるのは当然、予想されることである。患者や家族のニーズは否定できないし、患者の欲求に応えようとする医師の行動も一概に批判できない。


 ここに「財政の論理vs命の論理」の衝突が起きることになる。両者に折り合いを付ける手立てとして、エビデンスに基づいた標準医療や医療経済評価の導入、高額な新薬に関する制限診療の導入などが考えられるが、生命や健康を金銭で線引きしようとしても、必ず限界が生まれる。


 一方、財政への影響を考えないまま、高額な新薬を使い続ければ保険財政が逼迫し、保険料や税金を支払う国民、あるいは赤字国債の返済を余儀なくされる将来世代にツケを回すことになる。


 この両立は明確な答えが存在しない。だからこそ日本を含めてどこの先進国も医療費の抑制に成功していないのである。役所や医師だけでなく、費用を支払う国民一人一人が考え続け、曲がりなりに合意点を見出さなければならない難しいテーマである。


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丘山 源(おかやま げん)

 大手メディアで政策形成プロセスを長く取材。現在は研究職として、政策立案と制度運用の現場をウオッチしている。