【はじめに】


●医療費削減と公衆衛生・保健の質向上のどちらが優先課題か


 日本の医療制度の根幹は国民皆保険制度である。日本の医療は、美容整形などごく一部の自由診療を除けば「健康保険」をベースにサービスが供給されている。基本的に自由診療部分が、行われる医療行為に含まれれば、その医療行為はすべて自由診療とみなされる。一定の行為については(公的)健康保険との併用が認められており、それが混合診療といわれるものである。


 だが、「混合診療」という用語を含めて、現時点では、併用される医療技術はきわめて限定的で、かつ将来的には保険適用されることが準備されている医療技術という解釈が行われ、混合診療は「ない」ことになっている。国民に、いわゆる特定療養の意味が十分に説明されていないがゆえに、混合診療は実質的にはすでに導入されているという印象が伝えられている側面がある。


 混合診療は、健康保険で支払われる療養費と自由に選択できる保険外の医療技術を組み合わせて行われる医療であり、自ずとその患者の費用は、選択によって変わる。保険適用されていないが、高度な医療技術を望めば、自らの財布との相談で自由部分の医療を受けるか否かを判断することができる。しかし、このサービスが一般化すれば、選択が拡大されるというメリットとともに、先端的な医療技術を享受できない人々が多数出てくるというデメリットも生まれる。


 むろん、将来的な保険適用が保証されるわけでもない。混合診療の推進論者は、高度で先進的な技術の市場投入が早まり、多くの患者がそれによってベネフィットが得られるというが、健康保険制度が社会保障政策の一環であり、セーフティネットの重要な基幹部分であるとすれば、懐具合で医療内容に格差が生まれるのは、公衆衛生の観点からも問題はずっと大きく深いと言わねばならないだろう。


●診療報酬と薬価はデータで決めてきた、と説明はされてきた


 そのため、国民が等しくサービスを受けられる医療行為の範囲は、健康保険制度の枠組みの中で「診療報酬」として決められている。日本の国民は自由に医療機関にアクセスし、いつでも診療を受けられる(現時点では)。ただ、アクセスできる医療機関は保険指定医療機関であり、受けられる医療内容は保険診療報酬が支払われる診療行為だけに限定されている。そして、その受けられる診療行為はその報酬(価格)とともに内容が政府によって決定され、消費税導入時などの例外を除けば、2年に1度見直される。これが診療報酬と薬価の改定である。


 読者の大半が「常識」として有していると思われる、日本の健康保険制度の基本を延々と説明してきたのは、この診療行為の内容、項目、品質、効果測定の決定は、実はデータに基づいて行われてきたという実績があることを強調したかったからである。


 国民皆保険制度以後の保険で受療できる診療行為は、基本的に、社会医療診療行為別調査のレセプトの抽出調査をもとにしてきたと説明されている。なお、診療報酬点数(価格)は、それに加えて薬価調査、医業経営実態調査などが加味されて決定される。調査結果を決定したのは、むろんデータである、と説明されてきた。


 その説明は長い間、約37万件のレセプトデータから診療行為動向を分析するために集積されてきたとされてきた。その結果と効果測定、そして薬価調査、医業経営実態調査結果と合わせて、価格の決定がなされてきた。薬価は市場実勢価格が把握され、その結果に基づいて価格が算定される。算定方式そのものは紆余曲折を経てきたことは周知の通りだ。だいたい薬価は下がる。その財源は、おおむね医療行為、診療技術の引き上げに使われるという“不文律”で、診療報酬の見直し(改定)が行われ続けてきたという歴史もある。


 ここで何を言いたいかというと、社会医療調査、薬価調査、医業経営実態調査は、診療報酬を見直すことを目的に集められ、実行されてきた調査だということだ。調査結果はおおむね大きな改定数値に直結されるものだけが公表され、細部のデータについては公表されていない。中央社会保険医療協議会などの関係審議会、国会審議などで、数値を巡って論議の対象になったことはあるが、データ全体が細かく公表されてきたとは言いがたい。つまり、そうして集積されたデータは表向き、診療報酬改定の目的以外では使われないのである。論議の対象、参照的資料として使われたことがあっても、データは目的を明確にして、そのために使われるためだけに存在してきた。


 しかし、こうした前提でのデータそのものの考え方が変革されようとしている。つまり医療ビッグデータの時代到来であり、それはある政策行為の目的だけに集められるデータが終焉するサインである。ある意味、公衆衛生的価値がいくつもの重層化、複雑化したデータの中から効果が測定されれば、診療報酬の内容にも重大な影響を与えるだろうし、多様なメリットを追跡した結果によっては、新たな混合診療導入の考え方が浮上してくるかもしれない。


 そもそも、医療ビッグデータは、「公衆衛生的価値」で、現段階の期待値は高いだろうか。はっきり断言すれば、医療費への効果が最優先的期待となっているとしかみえない。国民にどのような医療サービス内容を提供するかではなく、医療費の削減にしか耳目は集まっていないのである。さらに露呈した日本年金機構の情報セキュリティ体制をみる段においては、個人情報が主役の医療ビッグデータの安全性そのものへの危惧は小さくはない。


 医療ビッグデータが何に使われるのか、何を目的にするのかも明確でなく、データ管理も信用できないという状況の中での、浮ついたデータ・オリエンテッドの政策は、やはり大変危なっかしいと指摘しておくべきではないだろうか。小社発刊の『医薬経済』6月15日号では、「情報漏えい国家の危ういデータヘルス計画」という、医療ビッグデータ時代に採用された計画への疑問が示されている。ICT企業の市場爆発への期待に医療が沿っていくことのリスク、健保組合の対応の実力に対する懸念などを指摘した上で、「状況証拠的には先行きは明るくない」という予測は、的を射ているという同意を表しておきたおい。


●目的が明確だったデータ収集もいい加減だった?


 今回はイントロダクションでもあり、過去のいわゆる目的が明確にされたデータ収集でも、明確な根拠づけでそれが十分に活用されたわけでもないことを伝えておく。例えば80年代には、当時の厚生族の大物政治家が、地元の医師会でその年に行われた診療報酬改定について報告したことがある。彼は、ほとんどが支持者で固められたその会合で、診療報酬改定率(引き上げ幅)が、医師会の期待には遠かったことを詫びつつ、本当はデータではもっと低い引き上げ幅になったのだが、薬価調査結果に手を少し加えて薬価引き下げ幅を実際より過大にし、診療報酬引き上げ財源を確保したと述べて、喝采を浴びた。当の政治家にしてみれば、地元支持者へのリップサービスをかねて、オフレコのつもりで喋ったのに違いないが、その地元の医師会機関誌は、ご丁寧にその一言一句を掲載した。


 今考えると、なぜ大きな問題にならなかったのか不思議ではあるが、目的が明確にされて集積されたデータでも、実は政策策定段階ではあまり意味を持たなかったことを示すエピソードだと言える。いわゆる医療ビッグデータの場合、そうしたいいとこ取りのデータの集約、一定の目標に沿ったデータ活用の懸念はないだろうか。そうした恣意は、社会医療調査や、薬価調査よりはるかにブラックボックス化しやすいと考えるのは、素人考えの浅はかさだろうか。


 前述した「データヘルス計画」は、健保組合の後期高齢者支援金の加算・減算制度のインセンティブをより重視する仕組みだと説明されている。都合のいいデータの選別を通じて、結果的に医療費への効果があからさまに語られているのは、やはり違和感が強い。健康寿命を延伸し、寝たきりを減らすという目的は、国民の公衆衛生的には確実なメリットだが、効果測定が不透明だったり、コストが減算メリットを超えてしまえば、国民の負担は同じことになる。


●自然と延命医療が消滅していく


 医療ビッグデータ、そしてその具体化として政策的にはその初発の役割を担う「データヘルス計画」は、国民の健康寿命を延ばし、寝たきり患者の期間を短くするという期待が強いことは前述したが、その一環で延命医療の見直しも、今後の医療ビッグデータから導き出されてくる可能性は大きい。しかし、日本の世界に例をみない高齢化の速度は、実は延命医療費の一部を減らし始めたという、スモールデータも報告され始めている。


 慢性人工透析が減り始めているのである。原因は高齢化だ。つまり透析受療患者の死ぬ割合が増え続け、新規の透析導入患者がわずかだが減り始めている。


 日本透析医学会は、全国の約4300の透析施設を対象にアンケートで、慢性人工透析の患者動向を毎年の4月末段階の状況を調査している。12年の調査回答率は施設調査で98.9%、患者調査で96.3%という高率で、アンケート調査とはいえ、信頼度は高い。同調査から93年から12年までの20年間について、透析患者の導入患者数と死亡者の動向をみてみよう。 


年  導入患者数  死亡者数  慢性人工透析患者数(前年比増加数)

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1993   23,874   12,143    134,298(10,372)

 94  24,296   13,187    143,709( 9,411)

 95  26,398   14,406    154,413(10,704)

 96  28,409   15,174    167,192(12,779)

 97  28,870   16,102    175,988(8,796)

 98  29,641   16,687    185,322(9,364)

 99  31,483   18,524    197,213(11,891)

2000     32,018   18,938    206,134(8,921)

 01     33,243   19,850    219,183(13,049)

 02     33,710   20,614    229,538(10,405)

 03     33,966   21,672    237,710(8,172)

 04     35,084   22,715    248,166(10,456)

 05     36,006   23,983    257,765(9,599)

 06     36,373   24,034    264,473(6,708)

 07     36,934   25,253    275,242(10,769)

 08     38,180   27,266    283,421(8,179)

 09     37,566   27,646         290,661(7,240)

 10     37,512   28,882    298,252(7,591)

 11     38,613   30,743    304,856(6,604)

 12     38,165   31,110    309,946(5,090)

 

 透析医学会はこの動向に関して、近年は導入患者の増加率は鈍化していること、前年より減っているケースも増えていることに注目している。一方で死亡者数は、一貫して増え続けており、08年には導入患者数と死亡患者数の差は1万人以上あったものが、09年以降は1万人を割り込み、12年は7000人規模まで縮んできている。導入患者数のペースが鈍っている中で、死亡者が増加しているのは、透析患者の高齢化が進む一方で、高齢者の増加と導入患者の増加がパラレルではないことは、透析医療そのものの現況に何かが起きていることを推定させる。


 これまで、人工透析患者は年間1万人以上増加し続けており、その医療費は1兆4000億円に達するというのが常識的に語られてきたが、全体の透析患者数の推移にも変化が現れ始めている。実際には05年以降、07年に1万人以上の増加をみただけで、減少傾向が継続しており、12年には増加数は5000人にまで減っている。学会関係者の見方は、この傾向は速度を上げて進んでおり、15年度から16年度中には増加数はゼロになるということでほぼ共通している。


 ということは、17年度以降は透析患者数そのものが減少に向うことになり、透析の役割は変化せざるを得ない。特に今後の人工透析は、腎移植の進歩、糖尿病や腎疾患の疾病管理の進行で、高齢者だけの適用になっていく方向にあり、延命医療というよりターミナルケアとしての位置づけが濃厚になり、医療費も終末期包括化点数の項目のひとつになる日も近いということだろう。


 ちなみに死亡者の死因は、12年データでは心不全25.6%(92年32.6%)、感染症25.4%(同12.6%)で、感染症の割合が多く、肺炎リスクの高い高齢者が増加していることを裏付ける。むろん、ビッグデータの活用は、透析医療の減少をもたらすメリットにもつながることは否定しない。しかし、スモールデータでも、1兆円を超える医療費の自然減が見え始めていることにも注目は必要だ。大きなコストをかけなくても、特徴を適確に捕まえるスモールデータの活用はできるのである。


 次回からは、データヘルス計画の詳細を示しながら、その目的と期待されている「効果」のあり方をながめてみたい。(幸)