TPPに関する賛否の内容についてみていきたいが、ここで論じる焦点は、日本の社会保障政策の根幹であり、世界に評価の高い国民皆保険制度がTPPによってどのような影響を受けるか、である。
TPPに合意して、条約批准となった場合に、皆保険制度がどのような影響を受けるかについては、未だに具体性に関しては鮮明ではない。現実に、医療の(市場的な)自由化、営利産業の進出につながる制度的な対応が図られるのか、あるいは図るのかすら何もアナウンスはされていない。しかし、医業経営の非営利ホールディングカンパニー制度の検討、患者申出療養制度(仮称)具体的検討の進行など、TPP批准以後を想定した動きはすでに顕在化しており、政府は皆保険制度への波及を認識的に受け止めていると言っていいだろう。
また、にわかに現政府が突っ走り始めた「農協改革」も、TPP抵抗勢力の骨抜きを先行させているとみるのは、当然のことながら穿ちすぎではない。かつて、長く政権を担当した現与党の票田であり、野党側から圧力団体視されてきた農協が、アベノミクスという経済改革主導によって、その勢力を削がれようとは誰が想像しただろうか。右派的な政権から退場に等しい扱いを受ける時代になった。そして、その引き金はTPPをはじめとする自由貿易を理想として展開を図る市場原理的な経済政策優先ゆえである。
その構図を、日本医師会に当てはめるとどうだろうか。日医もメディアを中心にかつて「圧力団体」と呼ばれ、権力中枢の権化のような扱いを受けてきたが、「国民の生命と安全を守る学術団体」も安部政権では、農協と同様の扱いを受けるときが来ないとは断言できないだろう。今秋から始まる診療報酬改定、薬価改定論議ではTPP対応を前提にした論議が、政権側から仕掛けられることは十分に予測できるが、その論議は始まっておらず、医療団体側の対抗準備も大きくは伝わってはいない。
前回、メディアがどうやらTPPに関しては「総論賛成」に回っているようだと指摘したが、やはり総論賛成に対抗するには現時点でわかりやすく各論での論議を呼び起こすしかないはずだが、その動きは鈍すぎるように感じられる。前回紹介したように、すでに日米の市民団体、消費者団体からは、TPP合意に対して強い懸念、不安が告げられているにもかかわらず、だ。
かつて(90年代だが)、当時の日医の首脳は、自分たちの主張を通すためには、中医協、社会保障審議会、国会などの「公的な交渉の場」ではなく、与党首脳との直接的なパイプによって、実質的な交渉を行うほうが得策であり、有利だと語っていたことがあった。90年代に、すでにいわゆる55年体制は崩れていたが、その頃はまだそうした方式がリーズナブルであり、日医の政治的対応は、民主党政権誕生を見越して、民主党とパイプの強いリーダーを選んだまでは、相応に間違えていなかったのである。しかし、安倍政権はかつての与党自民党ではなくなった。
●根幹の制度が生き残ることと骨抜きの落差
話を元に戻せば、TPPによって皆保険制度はどうなるのか。政府の公式なアナウンスはまだない。2011年に民主党政権末期の野田政権はTPP交渉に参加することを表明してその役割を終えたが、当時の野田佳彦首相は同年11月に参院本会議で「公的医療保険制度のあり方そのものは、議論の対象となっていない」と表明している。その後、ここまで明確に皆保険制度についてアナウンスが行われたことはない。
しかし、この答弁もいかにもだが、どうとでも受け取れる、解釈できる代物で、突き詰めていけば何も語っていないのと同様の印象にすり替わる。つまり「公的医療保険制度のあり方そのもの」は論議テーマではないが、付帯する具体的な経済的、保護貿易的要件も含めて「すべて外される」とは言っていないのである。
どのような基本的な制度を設計し、運用していくかは、その当該国の国民が決めるべきものであり、根幹はその国の政治が決定すべきものだ。前回、フランスの経済史学者の自由貿易と保護貿易はどちらが正しいというわけはなく、歴史をみればその影響は多様であると述べていることを紹介したが、国民の心身の健康と安全を確保する根幹の制度を、TPP交渉のような経済政策で侵襲できるわけがないことは当たり前のことであり、「(日本国内の)制度のあり方そのものが論議の対象にはならない」のは実は当然なのだ。
この野田答弁が、いかにも欺瞞的なのは、こうした答弁で皆保険制度がいささかもTPP交渉によって左右されることはないとの印象を与えることだ。例えば、同年9月には、「米国政府が公的医療保険の適用で自由化を求める声明」を当時の厚労相が外務省を通じて受け取っている。これが明るみに出るや、厚労省は薬価決定方法については交渉の対象となることをしぶしぶ認めている。
繰り返すようだが、米国政府の声明が日本政府に届けられたのは2011年9月。野田首相の答弁は11月である。つまり、「公的医療保険のあり方そのもの」は論議テーマにならないが、「公的医療保険の適用の自由化」は交渉テーマなのである。医師会をはじめとする医療団体がこのことに気がついていないはずは当然ないが、国民の関心は薄い。各論で国民的論議を起こす工夫が必要なのは、こういう交渉内容が、マジック的な報告によって検証されていないことを知らせるためである。
「適用の自由化」とは何なのか。幅広くとれば医薬品、医療機器、医療技術のみならず民間保険商品、患者サービスまで含まれることは当然として、公的医療保険が給付しない技術商品と給付する商品を並存することを認めなければならない。つまり、混合診療の導入であり、皆保険がめざす「国民があまねく同等に医療サービスを受ける権利」を達成しようとすれば、自由化されて入ってきた医療技術商品をすべて保険適用しなければならなくなる。わざわざ医療経済学的にみなくても、そんなことは全く不可能であることは自明。つまり、「適用の自由化」は、皆保険制度の崩壊、骨抜きにしかつながらないことが理解できるのであり、そのことを国民的論議にしなければ、結局「そんなはずではなかった」ことになる。
●米国の要求スタイルはすでに学習できている
日医も、当然のことだが皆保険制度はTPPの対象になるとの懸念をすでに発表している。ここでは11年11月に日医が公表した「見解」から、その「懸念」をおさらいしてみよう。
この見解では、「なぜ日本の公的医療保険がTPPの対象になると懸念されるのか」を説明している。「これまで、米国は日本の医療の市場化を要求してきた」とし、TPPによって米国要求は厳しさを増すと述べる。この連載で述べてきたように、日米の貿易交渉は、70年代初頭以後、日米貿易摩擦を主に展開してきた。米国側は常に、摩擦解消のために日本側が取り得る政策の実施期限の設定と数値目標を突きつけてくる。「米国要求は厳しさを増す」ということは、医療市場の自由化についても、こうした期限設定と数値目標をかなり高く広範なレベルで求めてくることは必定だ。
一方で、米国は民間保険商品の自由化交渉の中で、すでに米国資本がシェアを寡占している「第3分野」については、曖昧な形で交渉を終わらせ、結局はそのシェアを温存することに成功した例も述べた。すでに公的医療保険の代替商品でシェアを持っていることは、医薬品をはじめとする医療技術商品の自由化が混合診療のような形で具体化した場合、ノウハウはすでに米国にある。
もっとも、米国は自動車に関する交渉の中で、日本市場における米国車の価格設定が米国内より割高に設定されていることに気づかず、日本車の米国内米国製市場価格との整合を求める交渉で、米国自動車業界を慌てさせたというボーンヘッドもあったが、医療市場ではそういう期待も少ない。何より、皆保険制度は日本の医療文化とも言ううべきもので、独自の進化を遂げてきたものだ。米国文化と相容れがたい中で、何で整合させるのかも判然としない。
●民主党政権が交渉を決断したこと
日医の見解は、そうした危機感を前提にしたうえで、01年には米国年次改革要望書が、当時の小泉内閣に対して、日本の医療に市場原理を導入するよう要求したこと、10年3月には鳩山内閣に対して、「外国貿易障壁報告書」で、日本の医療サービス市場を外国企業へ開放することを要求したこと、11年2月に菅内閣との「日米経済調和対話」で、新薬創出加算を恒久化し、加算率の上限を廃止、市場拡大算定ルールの廃止、外国平均価格調整ルールの改定などを米国側関心事項として表明したこと、11年9月に米通商代表部(USTR)が「医薬品へのアクセス拡大のためのTPP貿易目標」を示し、透明性、手続きの公平性、不要な規制障壁の最小化などを要求してきたことなど、一連の米国側の対応を整理している。
この見解は、当時の民主党政権(末期)が、医療の営利産業化に向けた動きを示しているとの批判を前提に、TPPに対する「内からの懸念」も示している。10年6月に政権が示した新成長戦略がその標的だが、医療法人の役員規定に関する制度改正の動き、総合特区法の成立、公的医療保険の適用範囲の再定義の検討、国際医療交流の推進などが指摘されている。
しかし、国内的な動きは、当時の政権の実力からみて、さほど「懸念」としては小さかったと考えられる。例えば、政権交代前までは、小泉内閣が掲げた「聖域なき規制改革」が幅を利かせており、民主党政権は医療へのスタンスを少し和らげてきていたことを挙げておくことができる。USTRの要求についても、行政内部にはTPPがもたらす皆保険への強い影響への認識はあったかもしれないが、政権内部にはそれほど大きな危機感、強烈な認識はなかったのではないかと推測できる。11年9月には民主党政権はすでに死に体で、気息奄々だったからである。
次回以降は、TPPに対する危機感のスタディとなっている米韓FTAの現実、ISDS条項の問題点、そしてエコノミストなどにみられるTPPバラ色論の紹介を試みる。(幸)