●規制緩和がバックアップする神戸医療産業都市


 神戸が揺れている。阪神淡路大震災から来年1月で20年になるが、その復興政策の最大の目玉である「神戸医療産業都市」構想に暗雲が漂っている。背景は説明するまでもないだろう。STAP細胞をめぐる理化学研究所の論文捏造疑惑と、その実質的なリーダーの自死という一連の事件が構想を揺らし、凍り始めている。


 医療産業都市は、医薬品、医療機器開発を含めて、高度先進の医療関連の研究所、治療施設を官民共同での研究開発、生産、臨床のビジネスセンターとして成立させ、都市全体を医療ビジネスの集積地とする構想だ。米国では、戦後からテキサス・メディカルセンターを中心に、ピッツバーグで産業集積が進み、1970年代の心臓移植技術の確立で、その地位を不動にした例がある。


 神戸は、アジアにおける先進医療集積地区として、肝臓移植、再生医療のグローバルな拠点として息づくはずだったのだ。その柱のひとつ、再生医療の研究拠点における大きな躓きは、「国家戦略特区」のトップランナーとしての地位を大きく揺らした。


 医療産業都市の成立は、公共団体の厚い支援と、民間のダイナミックな資本投下、進出が不可欠だ。米国では、自由主義経済下で、あまり強い規制を受けずにプランニングがスタートし、それを全国に移植するか、あるいはその先進医療を享受したい人々を国内外から集めるかによって、新たなビジネスモデルを創造してきた。


 ピッツバーグはその成功によって、一時期は建設、ホテル、清掃、リネンなども含めて5万人の雇用を生み出したとされる。ビジネスモデルは、メイヨー・クリニックなどにも移植され、世界の医療技術のみならず、医療経済学、医療倫理学など、医療をめぐる多様な研究・情報の発信地としても求心力を持つに至った。 


●すでにインフラ整備は峠を越えたが


 しかし、日本にそのモデルを移植するには大きな障害があった。医療に関連するさまざまで強固な「規制」である。殊に世界に冠たる国民皆保険制度を、全国一律に運用するために張りめぐらされた関連規制は多岐にわたる。その意味で医療産業都市を成立させるには、それらの規制を一元的に凍結し、自由に研究開発、臨床化する当該地域独自の規制緩和が重要になる。米国では自由に発想できたプランニング、マーケティングは、日本では官の規制緩和という強い支援が不可欠になる仕組みだ。そのために生まれてきたのが2003年から検討が具体化してきた「特区」である。


 周知のように、全国で走っている現在の「国家戦略特区」は、医療だけではなく、農業などの医療以外のバイオ技術開発なども含まれる。しかし、震災からの復興という、大きな命題を持ってスタートした神戸の医療産業都市構想は、特区のなかでもすでにインフラ整備の時間を超えた地点にある。ようやくその具体的なビジネスシーンが見えてきたところである。


 神戸医療産業都市構想はプランが具体化して15年が過ぎている。メディカルクラスターとして成立するうえで、その構想を具体化させるモチベーションは、「規制緩和」の流れであった。現に復興を名目にした国による財政支援は21世紀初頭から始まり、昨年、神戸は関西地域における「国家戦略特区」に指定され、その流れを見越して多くの民間事業体の資本投下、直接進出も進んでいる。医療関連企業のクラスター(神戸ポートアイランド)進出は現時点で200社を優に超えている。


 また、研究、臨床施設もオープンが進んでいる。最終的には全体で1400床の高度先進病院群が出来上がる。そのなかには、渦中の理研の発生・再生科学総合研究センター(CDB)と施設間もつながる先端医療センター、肝移植を受け持つと見られる神戸フロンティアメディカルセンター(KIFMEC)なども含まれる。


●規制緩和の流れをつくったMOSS協議


 つまり、日本における医療産業都市構想は、阪神淡路大震災(1995年)の前から始まっていた規制緩和の流れを汲み取れなければ、発想されなかった可能性が大きい。医療をめぐる諸規制をいかにしてクリアにしていくかにも、ある程度の具体性を考えられる時期が来たときと、規制緩和の流れは交わり始めていたと考えられるのだ。


 規制緩和の流れは、実質的には1980年代の日米貿易摩擦から、米国による対日要求が具体化したものといわれている。しかし、医療(およびその周縁)の自由化を米国が直接的に要求したという証拠はほとんどない。日本における医薬品承認許可業務、医薬品流通慣行が非関税障壁として認識されていたという状況はあるが、医療全体の自由化を求めたという経緯はみることができない。1985年のMOSS協議の始まりが、その具体的第一歩とされるが、日米経済摩擦は1970年代の繊維をめぐる対米輸出問題から先鋭化し、1980年代に主に取り沙汰されたのは、自動車と半導体だ。


 MOSS協議については次回に詳しく振り返ってみるが、端的に言えば米国側が一方的な対日貿易赤字の縮小を日本側に迫ってくるなかで、戦略として選択されたのが「市場指向型個別協議」、つまりMOSS協議だ。1985年の当時の中曽根首相とレーガン大統領の直接対話後に米国によって提案され協議が始まった。このとき選択された個別分野が、電気通信、エレクトロニクス、医薬品・医療機器、木材の4分野だった。 


●レーガノミクスの転換とプラザ合意


 MOSS協議の始まりに関する当時の日米の考え方の相違、あるいは哲学の違いというものは、現時点での地平に立って眺めるとかなり興味深い。1984年頃からの日米協議は自動車、半導体に代表される著しい対米貿易不均衡の解消を目標にしていた。一定の年齢以上の人なら記憶があるだろうが、この頃、米国の自動車産業に従事する労働者たちが、日本製自動車の輸出攻勢に抗議して、日本製乗用車を破壊するニュース映像が盛んに流されていた。自動車だけでなく、テレビや音響製品も破壊の対象になっていた。


 しかし、当時、米国経済の低迷が日本の輸出によるとの論議はそれほど声高だったわけではない。レーガンは対ソ戦略で、ソ連が画策した欧州と米国の相反を阻止し、この外交戦略が効を奏して国内で経済問題を理由に支持率が下がったりはしていない。一方、日本側は、そもそも偏ったドル高が貿易不均衡の原因であり、グローバル経済下での為替の適正相場が作られていないと主張していたようだ。


 憶測的なのは、当時の日本政府が例えば自動車、半導体といった個別市場の事情と分析で、反論していたことが大きく報道されていたことによる。日米間の基本的な経済摩擦要因の論点にメディアの関心はあまり向わず、個別製品市場への影響にのみ関心があったとみられるのである。


 為替相場に関して当時をみれば、1985年、1ドルは260円台だった。現在の地平に立つと、信じられない光景である。また、1985年にはソ連にゴルバチョフ政権が生まれ、冷戦構造は一挙に終局に向かう。レーガンは1984年まで、ドル高は米国の基軸通貨に対する世界の信頼の現れだとして、ドル高に対して手を打たなかったが、対ソ戦略の転換を機に経済改革に着手する。大統領就任と同時に華々しく打ち出したいわゆる「レーガノミクス」の終焉だ。


 同年秋に行われたプラザ合意で、ドル高は一気に是正に向う。高金利を背景にして米国に流れていた資金は、日本では国内に止まり始め不動産投機を生み、バブル景気が始まる。 


●何でも早い神戸だが


 日本への規制緩和の初動はMOSS協議からだとして、なぜそのような交渉政策合意が日米間で行われたのだろうか。1985年をスタートとして、世界経済動向とその流れのなかで進められてきた規制緩和の論議、新自由主義経済論者のリードによる規制緩和の具体的動向とそのレスポンスについて、このシリーズを進行させていきたい。そして、規制緩和と連動して進められてきた特区制度についても、その本質は政権によって大きく違うこともみていく。


 冒頭に戻れば、「国家戦略特区」の後ろ盾を得た神戸医療産業都市は、すでにビジネスとして蕾になっている。これが想定どおりに満開となるのかどうか、STAP細胞問題は蹉跌となるのかどうか。そして実は、その開花予想のカギを握るのはアベノミクスかもしれないという予感もする。30年前、レーガノミクスは、「今からみれば」失敗に終わっている。


 このシリーズのイントロダクションに相応しくはないかもしれないが、立場によって違うが、神戸の人々の自慢気だったり自嘲気味だったりする共通の言葉を紹介する。「何でも神戸が初めて」。港湾都市として、洋菓子の発祥地としてもそうだが、エイズや新型インフルエンザも神戸から患者発生報告が行われた。医療法改正に伴う、医療圏域の設定も兵庫県は全国に先駆けた。病床規制への動きも早かったのである。実は、この医療法改正も1985年である。(幸)