昨春から沖縄問題を継続して取材しているが、ここ数ヵ月、他の仕事に追われている間に、あの20歳女性の暴行殺人事件が起き、居ても立っても居られない焦りに駆られている。で、今週の各誌を見渡すと、ある程度予想できたことではあるのだが、やはりこのテーマの“スルーのされ方”は異常なほどだった。
それはなぜか。これまで本土の媒体が、いかに枝葉の問題で翁長知事や反基地運動を叩き、冷ややかに論評してきたのか。そのツケが、こんなときに回って来てしまうのだ。問題の本質を論じずに、周辺の粗探しに終始してきたその姿勢が、いざ今回のような深刻な事態が生まれると、これはもう沈黙するしかない、という状況を生んでいるのである。
たとえば『沖縄の不都合な真実』という1年余り前に出た新書は、沖縄の反基地世論を冷笑し、所詮は反対派と容認派の“役割分担”“マッチポンプ”で、政府からカネを引き出そうとする茶番劇だと断じている。本土の保守論壇は、この主張にかなり影響されているが、結局のところ、この本では、長年にわたる理不尽な処遇への人々の感情、すなわち「沖縄の心」に関しては、「わきに置く」と議論を避けている。ここにこそ、問題の本質があるにもかかわらず。
翁長知事の主張は極めてシンプルだ。これ以上の基地は本土に造ってくれ。それだけである。オーストラリアを中心に年がら年中世界を巡回し、沖縄を留守にしがちな海兵隊。しかも一朝ことあれば佐世保から輸送艦の来航を待たねば動けないこの部隊の本拠地を、たとえば丸ごと九州に移したとして、防衛上、何の不具合があるのだろう。空軍の嘉手納基地や海軍のホワイトビーチ基地をなくせ、と言っているわけではない。しかも、知事の要求は海兵隊の「丸ごと撤廃」などという壮大な話でなく、辺野古の新設部分に限定されている。
人々の「もうたくさんだ」という思いの背景には、琉球処分や沖縄地上戦、27年間の米軍軍事支配とそれに伴う膨大な犯罪・事故、復帰後も変わらぬ基地の居座り・基地被害……という気の遠くなる歴史の蓄積がある。このような本質論に、右派勢力の主張は「中国に支配される」「反対運動は中国に操られている」などというトンデモ論しかなく、あとはただ、知事への個人攻撃や地元紙、反対運動への中傷を繰り返すだけだ。
で、今週の各誌は、と言えば、AERAや週刊朝日はちょこっと事件をなぞってはいるが、現代とポストはスルー。『不都合な真実』の版元の新潮はグラビアで淡々と扱いつつ、この案件が政治的な“ひとり歩き”を始めている、という皮肉を文末に潜り込ませている。昨年、翁長叩きの連載をした文春はさらに露骨だ。被害女性の父親のインタビューから「今は基地問題を話す時期じゃない」という一言を見出しに取っている。
そっとしておいてほしい、という父親の気持ちは十分にわかる。だが、県民の怒りは収まらないだろう。何しろ復帰以後、米軍関連で570何件目かの凶悪犯罪被害者がまた生まれてしまったのだ。しかも、こんなむごたらしい形で。「ほら見ろ」「まただよ」。思わず県民が口走るそんな言葉を封印しろ、というほうが、よっぽど“政治的”に思えるが、違うだろうか。「こんなとき」でなければいったいいつ、本土メディアは問題を論じてくれるのか。平時には冷笑的な記事しか書かないではないか……。
とまぁ、頭に血が上ってしまう状態だが、本土人の私でさえこうなのだから、現地の人々の憤激はいかばかりか、と思うのである。
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三山喬(みやまたかし) 1961 年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。1998年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取 材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。2007年に帰国後はテーマを 広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って」 (ともに東海教育研究所刊)など。