2012年に「天皇陛下の執刀医」として一躍有名になった、天野篤順天堂大学医学部教授。心臓外科医としての技量はもちろん、今上天皇の手術という非常にプレッシャーのかかる仕事を引き受けた「胆力」がずっと気になっていた。この度、天野教授の著書『あきらめない心』が文庫化されたのを機に手に取ってみた。


 全編を通して、超一流の心臓外科医になるまでの経緯や、天野教授の仕事の哲学が語られるが、仕事への取り組み方は、一般ビジネスマンにも非常に参考になる。


 何よりも感心させられるのが、仕事に取り組む真摯な姿勢だ。その姿勢は学生時代から。熱心さが高じて、〈一般外科研修で切除標本の胃を広げ、そこに顔を埋めて朝まで寝てしまったこともある〉という(朝起きたら相当驚いただろう……)。


 医師となってからは、〈命を削って、命をつなぐ〉を旨としてきたという。つい易きに流れてしまうわが身を振り返り、ただ反省。


 〈日常のすべてが手術の上達につながるという意識を持って〉磨いてきたという著者の技術は驚くべきものだ。〈僕の握力は45キログラムだが、瞬時に20グラムの力に切り替えることができる。(中略)自分にとっては最大の力で何かをグッと握った後に、パッと20グラムのごく軽いものに握り替えても、手がぶれないし、震えない〉。〈目から入ってきた情報は反射的に手に伝わって、自然と手が必要な動作をする〉という。著者曰く、〈「手術をすると疲れる」などと言うのは、僕に言わせれば、まだまだ未熟な外科医だ〉。


 天皇陛下の手術に関しては、著者が選ばれた背景、手術の中身、当日、手術後まで詳細が記されているが、それまでの皇室医療ではなかった、〈一番良いタイミングで最も効果的な治療法を選択する、いわば“積極的な治療”〉を、万全の準備のもと行ったことがよくわかる。著者本人には、重要人物の手術への備えはできていたようだが、周りのスタッフは若く、経験値も少ない。天皇陛下の手術という特別の状況下で、手術をともに行うスタッフの平常心を保つために、前夜に食事会を行うなどの配慮もあった。


■症例数の落とし穴


 凄腕医師の著書ではしばしば、“説教臭さ”が出てくるが、その点、著者は冷静に医療界を見るバランス感覚がある。


 例えば、何かと医療従事者からは批判されることの多い、雑誌などの名医紹介や病院ランキングについても〈このような情報は患者さんや家族にとって、病院や医師を選ぶ際のよい参考材料になるだろう〉と一定の評価をする。


 そのうえで、〈「数」には落とし穴があることも、また半面の事実〉として警鐘を鳴らす(こうしたランキングでは手術数などの定量データが指標として採用されることが多い)。


 受けなくてもいい手術を勧める病院があったり(本書では著者が接したある有名病院の事例が登場する)、症例数を維持したいと考える外科医がいたりするからだ(そういえば、昔、切らなくてもいい乳がんを切ったとして訴えられた“乳がんの名医”がいた)。


 著者の関心は治療だけにとどまらない。〈今の時代、大学病院でもヒューマンなサービスを向上させる努力がもっと必要なのではないだろうか。医療のホスピタリティをもっと充実させるべきではないだろうか〉と提言する。


 腕もよくて、ホスピタリティも充実している——。本書からも勤務医の過酷な労働実態が伝わってくるだけに(本書には出てこないが、勤務医の待遇は仕事量の割には決して良くない)、少々申し訳ないかな……と思いながらも、今年、順天堂病院院長となった著者のトップとしての手腕に期待である。(鎌)


<書籍データ>

あきらめない心

天野篤著(新潮文庫520円+税)