(1)忘れてはならない人物
大半の人は石原莞爾(1889〜1949)を知らない。名前を知っている人でも、石原莞爾のイメージは、
「政府の命令を聞かず、独断で関東軍を指揮して満州国をでっちあげた張本人」
「リレーに例えるならば、第2次世界大戦へ続く軍国主義時代の第1ランナー」
「東条英機と対立していたらしいが、少々の意見対立、あるいは陸軍内部の派閥抗争程度のことで、とにかく侵略者のトップバッター」
そんな程度であろう。かく言う私も、若い頃は、そうだった。
しかし、ふとした因縁で、石原莞爾に関する書籍を読むことになった。
読書感想は、「こいつは、ただ者じゃ〜ない」「忘れてはならない人物だ」であった。
(2)兵は神なり
明治22年(1889年)、山形県鶴岡市に生まれる。父は庄内藩の下級武士出身の警察官であった。天才少年、神童であったことは間違いなく、それを物語るエピソードは数々あるが、どこまで真実なのかわからないので省略。
昔は、近所の資産家が貧乏家庭の天才少年に学費を出すという美風があり、そのおかげで中学へ進み、陸軍学校へ入る。そこでの成績はトップであった。そして陸軍士官学校(21期)は6番で卒業した。
歩兵第65連隊(会津)の見習士官を経て歩兵中尉となる。石原自身はこの時期の連隊生活を「私の一生涯で最も愉快な年月を過ごした」と回想している。だから、陸軍大学校受験の希望はなかったようだ。しかし、連隊の幹部は、連隊創立以来ひとりも陸大に合格した者がいないのは残念だ、との思いがあった。そこで、連隊の汚名返上のため、石原に受験をさせた。連隊生活では受験勉強の時間など無に等しかったが、合格してしまった。連隊の幹部一同は「石原はいつ勉強したか」と大いに不思議がった。IQが抜群だったのだろう。
大正4年(1915年)、陸軍大学校に入学。
大正7年(1917年)、29歳、陸軍大学校を2番で卒業。
陸軍士官学校でも陸軍大学校でも、奇人の片鱗をみせている。服装はだらしなく、上官に媚びるところが全然ない。陸大の卒業時は、本当は1番だったが、1番は陛下の前で講演をすることになっており、となると、陸大首脳の脳裏に「石原は何を言い出すかわからない」という不安がよぎり、そのため2番にさせたといわれる。品行方正な秀才タイプではなく、奇人変人の天才タイプに、ほぼ間違いない。
再び、歩兵第65連隊(会津)に戻り、その後、陸大教官に就任、3年間のドイツ留学(大正11〜13年=1922〜24)、そして、昭和3年(1928年)に関東軍参謀として旅順に渡る。ここまでが、いわば「石原莞爾の第1期」である。
この間に、石原の思想はほぼ固まったと言ってよいだろう。石原の思想は、仏教とりわけ日蓮と軍事学を総合しての「世界最終戦争論」である。
それと、兵士をすこぶる敬愛することであった。一口に言えば「兵は神なり」である。「神の兵」ではない。猛訓練をなす兵の姿の中に神をみたのである。兵に対する最大級の敬愛精神である。そこから導き出されることは、常に正義の戦争でなければならない。また、神たる兵を安易に死に追い込んだり負傷させてはならない……そんな確信に至った。
それに関連して——
昭和13年(1938年)頃、日中戦争の最中、「勝った、勝った」の景気のいい掛け声の中、白衣の兵、手や足のない兵の帰国、桐の箱で帰国する無言の兵……、石原は「戦死者の慰霊祭に霊前に立つのだが、白々しくてとても弔辞を読むことができない。ただ、黙々とそれを呈してくるだけだ」と述べているように、慰霊祭に行くことが一番つらかった。あまりにも、つらく悲しいため、弔辞を読めなかったのである。なぜ、そんなにつらく悲しいのか……日中戦争は正義の戦争ではない、と確信していたからである。
また、昭和16年(1941年)、東条陸相の名で『戦陣訓』が配布される。「死するとも虜囚の辱めを受けるなかれ」という有名なやつである。文豪島崎藤村の作で、確かに美文・名文なのだが、石原の「兵は神なり」の信念とは180度異なるものである。神たる兵は死んではならぬ、神たる兵は死んではいけない、いわんや正義なき戦争で神たる兵を死に追いやるなど許しがたい暴挙なのである。島崎藤村の文章はまことに勇ましいが、石原の感性は、そこに自虐性すなわち「死ぬことがいいことだ」をみてとった。
だから、石原は『戦陣訓』を、「東条は、己を何と心得ているのか。成り上がりの中将ではないか。全軍に精神訓話などもっての外であり、師団将兵は戦陣訓を読むべからず」と痛烈に罵倒した。
(3)世界最終戦争論
石原は仏典と日蓮の教えを研究して、「世界は永久平和に向かって流れている」「永久平和は世界最終戦争も後にやってくる」そして「その時期は21世紀初頭」と推論した。このことは、石原の確信となった。
世界最終戦争は西洋の盟主たるアメリカと東亜連盟(筆者注:日本ではない)との間で戦われる。東洋諸民族は平等の関係で信義を守り協同して、西洋やロシアに対峙しなければならない。東洋諸民族の大同団結のためには、満州の大地に、五民族が完全平等に参加協力する理想国家「満州合衆国」を創設する。満州国で五族の平等協和が実現すれば、東洋の全地域が平等協和へと向かう。
その他、兵器の進歩に対する見通しにも鬼才を発揮しており、今後の戦争は地面海面だけでなく、空中も戦場となる。そして、航空機が完全に優位にたつと断じている。なお、同じ頃、海軍では山本五十六がやはり航空機優位を力説していた。ちなみに、陸軍の石原と海軍の山本は生涯一度も会うことがなかった。
また、消耗戦争と殲滅戦争を区別する戦争論などを加えて、壮大な「世界最終戦争論」とした。
ここで若干、石原の日蓮信仰について説明しておく。
大正時代、田中智学(1861〜1939)の国柱会なる日蓮主義の団体が急成長した。戦争推進の国粋主義スローガン「八紘一宇」(はっこういちう)を造語したのが田中智学である。国柱会の思想は、ベースとしては日蓮宗を西欧哲学的に見直す、仏教の近代化というものである。ここまでは文明開化の日本だから、もっともなことだ。それがどこでどう変色したのか、日蓮の三代請願、すなわち「我、日本の柱とならん。我、日本の眼目とならん。我、日本の大船とならん」が法華経唯一の国粋主義に転化し、そして、皇国史観と合体した。分立状態の日蓮宗・法華宗を統一し、さらに法華経のもとに全宗教・全宗派を統一し、皇祖皇宗の日本国体も法華経のもとに体系化するというものである。簡単に言えば、今の世の中は狂っている、法華経に帰依した天皇をトップにした法華経宗教国家(世界)を建設すべきだというものだ。
鳥瞰的に眺めれば、国柱会は、宗教右翼、右翼カルト教団へ急旋回していくのだが、当時の日本は、絶望時代であった。井上日召(日蓮宗僧侶)の血盟団の「一人一殺」事件、あるいは、「死のう団」(正式名:日蓮会殉教衆青年党)事件、これらも国柱会の直接間接の影響があったと推測する。
石原は国柱会の熱心な会員となり、田中智学の日蓮教学を学んだ。そして、智学の日蓮教学を基礎に五族協和のユートピアをめざした。
さて、石原は大正13年(1924年)にドイツ留学より帰国し、陸大の教官として、「世界最終戦争論」を発表し、にわかに注目を集めていった。
問題は満州である。現代では誰も中国の領土であると認識しているが、昔は違う。歴史的に漢民族の中国とは万里の長城までであって、万里の長城以北は歴史上様々な民族・部族が興亡を繰り返していた。
そして、明治・大正・昭和初期にあっては、北からはロシアの圧力、日清・日露戦争で日本の進出、清朝(満州族)崩壊といえども強大な満州軍閥の台頭、朝鮮半島近接地方には朝鮮民族も多数居住、モンゴル方面には蒙古民族が居住などで、いわばモザイク的混沌地域であった。したがって、たとえば、大正2年(1913年)には、三井の根回しによって満州買収計画が契約寸前まで行ったりした。これは土壇場で、山県有朋が「満州はすでに日本の勢力圏にある。今さら買収の必要はない」という反対論でつぶれた。いずれにしても、モザイク的混沌の地が満州である。
この満州の地に、石原莞爾は、民族平等を原則とする多民族国家、東亜のパラダイスを夢見たのである。満州の地に五族協和の楽園が成功すれば、東洋の諸民族は本物の友好親善関係となる。東洋諸民族は一致団結して白人帝国主義に対抗でき、将来到来するであろうアメリカとの世界最終戦争に勝利できる……と考えたのである。
横道の話ですが……、黒人のオバマがアメリカ合衆国の大統領になった。アメリカ合衆国では民族協和が着実に進行しているようだ。石原莞爾の五族協和の夢は実現しなかった。さらに、昨今の日本では、反中国、反韓国・朝鮮を基調とする国粋主義が広範に浸透している。20〜30年前だったら、ピエロ扱いされる日本無謬論が恐ろしいくらい普及している。民族協和という観点から思うことは、やはり日本はアメリカに敗れる運命にあったのだ。
(4)満州事変
大正10年(1921年)、後世、「バーデン・バーデンの会議(密約)」と呼ばれる3人の陸軍士官が、ドイツ南部の温泉地バーデン・バーデンで、陸軍および日本の改革について話し合った。スイス駐在武官永田鉄山少佐、ソ連駐在武官小畑敏四郎少佐、ヨーロッパ視察中の岡村寧次少佐の3人である。
その会議の結論は、まず陸軍を改革する。すなわち、藩閥人事を打破し、陸軍の近代化をなす。改革した陸軍が中心になって国家を改革する。当面の手段は、陸軍将校で同じ考えの同志を団結させ、上層部を動かす。クーデターや陸軍の分裂という強引な手段はとらない。その後の歴史は、この3人が話し合った通りに進行していく。
帰国した3人は同志をつのり、大正13年(1924年)、岡山出身(薩長閥に属していない)の宇垣一成を陸軍大臣に就任させることに成功する。そして、「宇垣軍縮」と呼ばれる陸軍近代化にも成功する。
そして、この頃、国家改造とともに満州をどうするか、が焦点になりつつあった。
当時、日本は広大な満州のうち旅順や大連などがある関東州と南満州鉄道会社の線路に沿った幅62メートルの地域を租借していた。そして、旅順に「関東軍」という陸軍約6500人が防衛にあたっていた。そうした中、満州で排日運動が急速に高まりつつあった。
そうした状況下、石原の考えが注目されるようになった。
石原の考えは、「日本が満州を占領して、五族協和の理想郷をつくる」というものである。排日運動を根本的になくすには、五民族の完全平等の国をつくらなければならない。その実現のための満州占領である。
だが、石原の考えを聞いた多くの将校たちは、「五族協和の理想郷」よりも「満州占領」という部分に興奮を覚えた。
ある日、永山鉄山が石原に「石原君、君は満州を占領してしまえという考えを持っていたな」と声をかけた。
石原は「そうです。思い切ったことをしないかぎり満州問題は解決しないでしょう」と返事をした。
永山が「やるか」と、石原の腹をさぐる言葉をかけると、石原はニヤリと笑ってみせたという。いわゆる、日本的腹芸である。日本的以心伝心は、往々にして、両者に「食い違い」が生じるものだ。「五族協和」にしても石原は「平等対等」が当然であったが、多くの将校は、日本軍が占領するのだから「日本人優位の協和」が当たり前と思っていたのだろう。
そんな腹芸エピソードがあって、昭和3年(1928年)、石原莞爾は関東軍作戦参謀として満州に渡る。石原は3年間、満州全土を視察して占領計画を練った。とにかく、満州の大軍閥たる張学良は17万人の兵力を有しており、さらに、張学良以外にも満州各地に有力な軍閥が多数の兵を養っていた。それに対して、関東軍は6500人である。石原は、純粋に軍事的にみても天才参謀に違いなかった。
満州事変の概要については、高校の日本史教科書を引用してみよう。
……関東軍参謀石原莞爾らは、1931年(昭和6年)9月18日奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道爆破事件(柳条湖事件)をおこし、これを中国軍の仕業として軍事行動を開始し、満州事変が始まった。第2次若槻内閣は不拡大方針を決定したが、関東軍はこれを無視して占領地を拡大し、また世論も軍の行動を支持したので、収拾の自信を失った若槻内閣は内閣不一致も原因し総辞職し、かわって同年12月政友会総裁犬養毅が組閣した。翌年になると、軍はほぼ満州の主要地域を占領し新国家樹立の準備を進め、3月には清朝最後の宣統帝溥儀(ふぎ)を執政として五族協和の理想をかかげ、満州国の建国を宣言した……
東京政府の了解なしに開始され、東京政府が右往左往している間に、石原莞爾は強引に軍を進行させ、東京政府の意向など完全に無視して建国宣言をなした。
満州には、中国人3600万人、満州人270万人、朝鮮人170万人、蒙古人100万人、日本人70万人が住んでいた。五族が互いの民族的個性を尊重しつつ、民族的差別を廃し、友情と同志的結合で理想の東亜多民族国家を建設しようとしたのである。石原の心境はあっさり言えば「大革命」の実行であったから、躊躇なく東京政府の意向を無視したのである。だから、多くの中国人、朝鮮人が石原の理想に共鳴し希望を託した。
石原は満州国の将来を大いに楽観視していた。
「独立国だから、人々は自由に出入りできる。楽土だからどんどん人が寄ってくる」
あたかも、アメリカ合衆国のようなイメージを抱いていたのかも知れない。
石原は建国の年(昭和7年=1932年)の8月に帰国する。
(5)夢、破れる
帰国した石原は国際連盟への随員のひとりとしてジュネーブに半年滞在する。そして、昭和8年(1933年)8月、仙台の歩兵第4連隊長に着任。その連隊で、「兵は神なり」らしい兵営改革を実行する。いろんなエピソードがあるが、すべて兵を敬愛する心情からのものである。
昭和10年(1935年)8月、参謀本部第二課長(作戦担当)となり、東京に着任。ソ連の急増強化された軍事力に対抗するため、満州の産業開発をなして、日満一体の国防体制づくりの推進に着手した。なお、ノモンハン事件は昭和14年(1939年)に勃発した。日本陸軍敗北の事実は隠蔽された。隠蔽イコール反省なしであった。
それはともかくとして、その頃の石原莞爾の特筆すべきは、何をさておいても「東亜連盟」構想である。
日本は中国に有する権益は全部返還する。
日本の権益擁護の駐兵は全部撤退する。
中国の独立を保全し、相互に内政干渉しない。
両国は民族協和の運動を展開する。
中国は満州国の独立を承認する。
蒋介石の南京政府は「日本の有力軍人から、このような話を聞かされるとは思わなかった」とびっくりし、石原に全面賛成の意向を表明した。
しかし、石原の意図とは逆へ逆へと時代は動いていく。
昭和12年(1937年)7月7日、北京郊外の盧溝橋で軍事衝突(北支事変)が生じた。石原は、事件不拡大の方針でのぞんだ。その理由は、日本と中国の民族的友好が完全に損なわれるからである。五族協和を実現して……という信念は不動のものであった。
石原は戦線不拡大の信念を持っていたが、苦悩の決断として3個師団(約6万人)の派兵を決めた。さらに、上海事件発生で苦境に陥った。平和停戦の策を提案したが、近衛首相は何もしなかった。石原は「日本を滅ぼす者は近衛である」と憤慨するのであった。
そして、昭和12年9月、戦線不拡大方針の石原は東京の参謀本部から、関東軍参謀副長として、再び満州に赴任することになった。完全な左遷人事なのだが、石原は満州赴任を喜んだ。満州を建国当初の理想に戻そうと意気込んでいたのである。
石原の満州赴任は、満鉄総裁の松岡洋右、関東軍参謀長の東条英機、朝鮮総督の南次郎をあわてさせた。彼らは、石原が策定した対ソ施策を何ひとつ実施しておらず、既得権益の保護のみにこだわっていた。また、石原の理想とする満州国の独立自治を無視し、関東軍の満州支配の強化だけに専念していた。
石原は必死に関東軍幹部に直言・直談判をした。しかし、まさに孤軍奮闘であった。満州建国時に満州4000万人の五民族人民に約束した五族協和、独立自治のパラダイスを実現して、日本の信用を回復させねばならない。しかし、満州国の実力者にとって、石原はすでに邪魔者にすぎなかった。憲兵司令官出身の東条英機は憲兵組織のノウハウで満州の軍支配を強固にするばかりであった。満州は「悪事なんでもあり」の邪悪腐敗国家の坂道を驀進していた。
石原の精神的疲労は極限に達し、肉体も病に蝕まれる。そして、昭和13年(1938年)8月に休職願を提出し、ひとり「協和服」に身を包み寂しく帰国の途についた。
(6)東亜連盟運動に熱中
軍退職を願ったが認められず、病気静養の退院後の昭和13年12月、舞鶴要塞司令官となる。戦死者の慰霊祭で弔辞が読めなかったという逸話は、この頃のものである。
昭和14年(1939年)8月、京都師団長に就任。
舞鶴・京都時代、石原はさかんに反東条・反ドイツを展開する。
「東条の『戦陣訓』のごとき不敬なものはない。師団将兵は読むべからず」
「東条陸軍大臣こそは日本の敵であり、銃殺されるべき人物である」
「ヒットラーの片棒を担いで米英と戦争を起こしては日本の命取りになる」
「ヒットラーの民族差別は間違い」
「石油など米英と妥協すれば、いくらでも手に入る。石油のため戦争するバカがどこにいるか。南方を占領したところで、日本の海軍力や船舶では石油はおろかゴムも米も輸送できるわけがない」
かくして、昭和16年(1941年)3月、石原は軍を去る。
このニュースは少なからず陸軍海軍に衝撃を与えた。東条は石原退任で騒乱発生を危惧し憲兵を動員して監視させた。京都市は東条の弾圧を恐れ、明治以来の師団長送別会を開催しない有様であった。
軍を去るや、石原は水を得た魚のように救国和平の東亜連盟運動に邁進する。東亜諸民族の協和、国民が総決起して……、一気に東条、岸信介を軍法会議に付して処刑、ヒットラー批判……
東条は石原に共鳴する青年運動家を続々逮捕した。
しかし、東亜連盟運動は全国に拡大していった。
東条暗殺計画も立てられたらしい(憲兵がでっちあげた運動家逮捕の口実という説も有力)。
石原がどういう作戦で政権獲得をめざしていたのか不明だが、石原が演説をするという噂話だけで、1枚のポスターがなくても、数千人が集まった。
(7)戦後
石原は、なぜ自分が戦犯とならなかったのか、ずいぶん不思議がった。それはそれとして、石原の永久平和の思想は完全に開花する。
「戦勝国は膨大な軍事力を有しており、一歩間違えば悲惨極まりない世界最終戦争を引き起こすであろう。私は心から、その戦争を経ずして永久平和の来ることを念願している。日蓮聖人は世界最終戦争の後に永久平和が到来すると予言されたが、たとえ日蓮聖人の権威が否定されようとも、あくまでもそれを回避すべきだ」
「日本は戦争を完全に放棄した。日本は蹂躙されても戦争放棄に徹して生きていくべきだ。ちょうど、日蓮聖人が竜の口に向かっていく態度、キリストが十字架を背負って刑場へいく態度を、日本国家はとらねばならない」
東亜連盟は占領軍によって解散させられた。
石原最後の仕事は、山形県飽海郡の砂丘地西山での「村づくり」である。石原を慕って全国から集まった人々に永久平和を説き、南無妙法蓮華経を唱えつつ、くわを振るった。
昭和24年(1949年)8月15日、波乱の生涯を閉じる。
石原莞爾は忘れ去られようとしている。
しかし、忘れてはならない人物である。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。