そろそろ半袖の季節である。京都は7月の祇園祭に向かって何かと気ぜわしくなっていく季節のような気がするが、気温の上昇とともに梅雨に向かって雨降りも増えて、傘をさして出かけることが多くなる。この時期の薬用植物園では、植物にも傘を広げているものがある。白く目立つ大きめの傘は、トウキの花序である。



 一般的にセリ科植物の花序は、散形花序(umbel)といって、茎を中心に傘を開いたような形である。ひとつひとつの花は小型だが、それらがたくさん集まって傘を開いたような形になる。曇天でもよく目立つ白い花序は、切り花にもできそうな感じだが、近づいて触ってみるとかなり強く香りがする。セロリのにおいを強烈にしたにおい、と表現したらいいだろうか。この香りのせいかどうかはわからないが、満開からほどなく、トウキの花は無数のカメムシに占領される。 



 トウキの薬用部位は地下部、つまり根である。地上部と同様の強い香りがあるが、より甘い感じの香りである。味も他の生薬に比べると甘い。この生薬トウキは、当帰芍薬散をはじめ、多くの漢方処方に配合され、日本で汎用される漢方処方の約3分の1に入っている。


 トウキ(当帰)は、古来より身体を温める作用が強いことが知られており、身体の「冷え」が原因とされる各種の疾病に対して処方される。これは、東洋医学での重要な概念である「気(き)」「血(けつ)」「水(すい)」のうち、血を温めて巡らせる作用が強いからであって、冷えや血の巡りの不調からくる体調不良には、このトウキがたっぷり入った処方が汎用される。 


 いきおい、女性が多く罹患する疾病をターゲットにした漢方処方に多く配合されるのだが、冷えはなにも女性の専売特許ではない。これからの季節、冷房の冷えに悩まされる日本男子は多いと言われており、そういう場合に有効な漢方処方には、トウキがたっぷり入ったものもたくさんあるのである。 


 トウキという名前は、漢字では当帰と書くが、これは「まさに(当に)帰る」という意味からきているという。では誰が何処に帰るのか。説明しながら学生たちに問いかけると、「天に帰る」という答えがしばしば返ってくる。しかし、生薬の効果として昇天していただいては困る。正解としては、妻が夫の元に帰る、のだそうだ。 


 古い時代は男女が結婚すると、子供が生まれることが強く期待された。しかし、いろいろな理由で子供に恵まれないと、多くの場合は妻に原因があるとされ、実家に返されることもしばしばあった。そんな実家に返されてしまった妻に当帰の服用を勧めた人があり、妻が実際に服用を続けると生理不順が治り体調が整い、妊娠できる身体になったので、当に夫の元に帰ることができた、というわけである。 


 さて、日本で使用される生薬の多くは中国からの輸入品で賄われているが、トウキもご他聞にもれず、中国で栽培された輸入品が多く使われている。しかし、中国の薬局方に相当する中国薬典に定められているトウキの基原と、日本薬局方に定められているトウキの基原では、植物の種が異なっている。中国では日本のトウキは日当帰と呼んで区別しているようだが、これは通常では中国で使わない種である。知ってしまうと少々心配の種になる事実であるが、このように、同一の漢字で表記される生薬名とそれに対応する植物種が、日本と中国で異なっている例は、案外多いのである。 


 ではトウキの日本での栽培はというと、他の生薬、例えばカンゾウ(甘草)やマオウ(麻黄)に比べると盛んな方で、平成24年度の統計では、日本での使用量の約20%は国産のトウキであったということだ。基原の植物名を和名で「大和当帰」と称することがあるのだが、その名の通り、奈良県で古来から作られていたものが上質であると言われている。現在でも奈良県などでは特産品にすべく、県を挙げて栽培に取り組んでおられるようである。


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伊藤美千穂(いとうみちほ) 1969年大阪生まれ。京都大学大学院薬学研究科准教授。専門は生薬学・薬用植物学。18歳で京都大学に入学して以来、1年弱の米国留学期間を除けばずっと京都大学にいるが、研究手法のひとつにフィールドワークをとりいれており、途上国から先進国まで海外経験は豊富。大学での教育・研究の傍ら厚生労働省・内閣府やPMDAの各種委員、日本学術会議連携会員としての活動、WHOやISOの国際会議出席なども多い。