(1)質素倹約の3種
質素倹約の人にも3通りあると思う。
第1は、貧乏だから質素倹約をせざるを得ない人。選択肢が質素倹約しかないので「ヤダ、ヤダ、貧乏はヤダ!」と言いながら実行する。
第2は、貧乏であっても、美徳として積極的に実行する人。マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のパターンと言える。
第3は、富裕であるが質素倹約を美徳として実行する人物。これはなかなか困難なことで、本人は質素倹約のつもりでも、周囲の目には「ケチ」と映る。だから、よほどの人格者でないと「質素倹約の人」と評価されない。ともかくも、富裕なのに、質素倹約を実行する人は立派だ。
そこで、第3の「富裕なのに質素倹約を実行した」代表選手として、松下禅尼を取り上げてみた。
高校の古文で『徒然草』を読んだ人は、「なんか聞いたことがあるような……」と脳細胞の片隅に記憶があるかも知れないが、圧倒的多数は「知らない」人物である。
(2)五代執権北条時頼の母
松下禅尼(生没年不詳)は、鎌倉幕府3代執権北条泰時(1183〜1242年、在任1224〜1242年)の子時氏の正室で、4代執権経時(1213〜1246年、在任1242〜1246年)、5代執権時頼(1227〜1263年、在任1246〜1256年)の母である。鎌倉幕府の有力御家人である安達一族の出身である。
北条執権体制は、3代目の北条泰時の時期に確立されたと言ってよい。たとえば、武家の最初の体系的法典として有名な『貞永式目』(御成敗式目)51ヵ条を制定した。しかし、泰時の時代はまだまだ北条氏以外の有力御家人との合議制であった。
4代目の経時は夭逝し、5代目の時頼の時期に、事実上の北条氏独裁体制が確立した。
『太平記』では、泰時・時頼の時期を北条九代の中の黄金時代とみなしている。北条は本来7代で亡ぶ宿命を有していたが、泰時・時頼の善政のおかげで9代続いた、と述べている。『太平記』は泰時・時頼について、
「身安く楽しみに誇っていては、世治まり難き事を知る」
「いささかも、道理(ことわり)に背き、賄賂に耽る事をせず」と絶賛している。
とりわけ、時頼に注目したい。
繰り返すが、泰時の時代は、まだ有力御家人の合議制だったが、時頼の時代は完全に北条独裁体制が整った。
余談になるが、中国大陸の宋から舶来品がドンドン鎌倉へもたらされた。その量たるや莫大で、日本からは陸奥の黄金が支払われた。日本からあまりにも大量の黄金が宋へ渡ったので、元のフビライは「ジパングは黄金の国」と信じて、元寇の遠因になった、と言われている。さらに、マルコポーロの『東方見聞録』に黄金のジパングが紹介され、コロンブスのアメリカ発見となり……、時頼の日宋貿易の影響は「風が吹けば桶屋が儲かる」式に繋がっていく。
余談のついでに、日本の金山はことごとく堀り尽くされたと思われているが、さにあらず、日本列島には金鉱脈がまだまだいっぱいある。鹿児島県の菱刈鉱山が代表例である。
話を戻して、日宋貿易からも類推できるように、時頼は、平安時代の藤原道長、安土桃山時代の織田信長、豊臣秀吉のように豪華絢爛たる贅沢が可能だった。だが、「身安く楽しみに誇っていては、世治まり難き事を知る」ゆえに、質素倹約を実行した。日本史の中で、絶頂期の最高権力者がかくも質素倹約をなしたのは珍しいのではなかろうか。
(3)教育ママ
なぜ、時頼が質素倹約の人物になったのか。それは、母である松下禅尼の教育成果のおかげである。
『徒然草』第184段の話である。
時頼が23〜25歳の頃の出来事である。すでに執権となり、相模守に任じられている。
母・松下禅尼は、わが子の時頼を自分の屋敷へ招待した。わが子といえども天下の執権である。まずは、大掃除。
大掃除の最中、禅尼はススで汚れた障子の破れた所を、小刀で小さく切って、ノリで紙を貼りつけ始めた。
禅尼の兄が「そんなこと、家来にさせれば……、障子貼りの得意な男もいますから」と言う。
しかし、禅尼は「その男よりも、私のほうが上手ですよ」と作業をやめない。
兄はさらに、「障子全体を貼りかえたほうが、ずっと簡単ですよ。それに、新しい紙と古い紙がマダラになって、かえって見苦しいのではありませんか」と言う。
そこで、ジャーン、禅尼はきっぱり言う。
「今日だけは、わざとでも、こうしておくのです。物は破れている所だけを修理して使うということを、若い人に見習わせて、注意を促すためなのです」
なんですね〜、この「わざとでも」の部分に感心して、吉田兼好ならずとも「いと有難かりけり」。そして、「世を治むる道、倹約を本とする。女性なれども、聖人の心に通へり」と称賛する。
天下の平安を保つ立派な政治をしたのも、この母の教育の成果である。吉田兼好は松下禅尼を「ただ人にはあらざりけるとぞ」と再度称賛する。あっぱれ賢夫人、あっぱれ教育ママ。
(4)味噌をなめて酒を飲む
この母にしてこの子あり。時頼の日常の質素簡素ぶりが、『徒然草』第25段に載っている。
ある夜、家来が時頼に呼ばれた。家来は正装して参ろうとしたが、正装の衣服が見つからずマゴマゴしていたら、使者がまたやってきて、「正装なんかしなくてもいいから、早く来い」と言う。それで家来は、よろよろシワシワの普段着で参上した。
すると時頼ひとりが銚子と素焼の杯をそろえて持って出てきた。
「この酒をひとりで飲むのが、物足りなく寂しいので、急ぎ来てもらった。酒の肴がないので、どこか屋敷内を捜してみてくだされ。何かあるかも知れない」
そこで、家来は蝋燭をともして、あちこち捜す。やっと台所の棚に味噌を見つけた。
「味噌がございました」
「それで間に合うだろう」
天下の執権様は家来といっしょに味噌を嘗めつつ、杯を重ねて歓談した。
時頼の気取らない性格、女中をたたき起こさない気配り、味噌の肴だけで大満足する素朴さ……天下の執権様の簡素な生活が窺い知れる。
この話は、この家来の老後の昔ばなし、という形式を取っているが、最後に「この世はかくこそ侍りしか」と結んでいる。時頼の時代は、すべてが簡素、質素であったのになぁ〜、ところが、今は派手で贅沢で困ったものだ、という嘆き節が聞こえてきそうだ。
吉田兼好は「世を治むる道、倹約を本とする」と言っているように『徒然草』のアチコチで倹約が大切、倹約が人の道と繰り返し述べている。
昨今、景気回復のためには消費(浪費?)拡大が必要として、バカな対策が採用されたりする。しかし、質素倹約、簡素の価値を忘れてはならない。景気の善し悪しに関係なく、質素倹約、簡素は、常に正しい生活態度と思うのだが……。そんなことを思っていると、なぜか、「世界一貧しい大統領」と呼ばれているウルグアイのムヒカ前大統領の顔がチラチラする。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。