今週の週刊新潮に『黒人の貧困問題の根源 「人種と知能」のタブー』という橘玲氏による「特別読物」があった。記事のリードによれば、氏は《科学の最新知見でタブーに斬り込んだ『言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)》の著者ということで、今回の記事はこの本の一部内容を取り上げたものらしい。
それによれば、《アメリカの人種問題は、黒人と白人の知能の格差から起きている》もので、すでにそれを裏付ける科学的データは膨大に存在しているうえ、アメリカではそういった指摘をしても、「差別」とは見なされず、《証拠に基づいた意見》と受け止められるという。
一応、文末には《すべてのひとが普遍的な人権を持つのは当然なことだ》とし、《平等な社会は、人種による生得的な差を隠蔽し、否定することでは実現しない。事実を受け入れたうえで、科学的な知見が差別につながらないような社会をわたしたちが築いていかなくてはならない》と、差別に釘を刺す文言は記されている。
だがやはり、この記事はあまりにセンセーショナルに過ぎる。果たして黒人の知能は本当に、遺伝的に劣っている、と言えるのか。不勉強な私には判断がつかないが、仮にそういった“科学的知見”が存在するにしても、こういう形でそれを記事にすることが、どのような社会的影響を与えるか。記事を読んだほとんどの人は、“普遍的な人権”への配慮など考慮することなく、“遺伝的な黒人の知能の低さ”という記述だけがひとり歩きするだろう。
慰安婦問題や南京虐殺をめぐる物言いにも、似たことを感じる。「戦争中、慰安婦が存在しなかった、などと言うつもりはない」「虐殺が一切なかったとは言わない」。右派の論考には、そういったエクスキューズがしばしば見られるが、現実にその主張がどのように、ネット上に拡散しているのかを見れば、慰安婦制度や南京事件の存在そのものを「全くのウソ」「でっち上げ」と理解する人が膨大に生まれていることがわかる。
もちろんそれは“読む側の勝手な誤解”である。しかし、そういった“読まれ方”が容易に予想される以上、情報の発信者には“結果責任”があるように筆者には思えるのだ。媒体も同罪だ。例えば、今週は各誌が、相模原市の障害者大量殺人事件に関連して犯人の差別思想を批判している。果たして週刊誌にそれを言う資格はあるのだろうか。 例えば新潮は、《ナチスドイツの「優生思想」に気触れ(かぶれ)たかのように、無辜の命を次々と葬り去っていった》などと容疑者を断罪する。では、新潮にこれまで、弱者への差別を助長するような記事はなかったと言えるのか。
今週は新潮とポストがこの件で、神奈川県警が犠牲者19人を匿名で発表したことを批判した。背景には、遺族の意向もあったようなのだが、それにしても、健常者の事件と異なる対応をする必要が本当にあったのか。この点での両誌の追及には私も共感する。万が一、身内の障害を知られたくない、という思いが遺族の一部にあったのなら、それこそが一種の差別に他ならない、という2誌の主張には説得力がある。
だが何にせよ、社会的弱者への差別的な言及は過去何年にもわたって、多くの雑誌媒体に溢れていた。何よりも雑誌はまず、そのことを反省すべきだろう。「黒人の知能は低い」などという特集を堂々と載せるようでは、そんな自覚は微塵もないのかもしれないが。
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三山喬(みやまたかし) 1961 年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。1998年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取 材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。2007年に帰国後はテーマを 広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って」 (ともに東海教育研究所刊)など。