週刊ポストに評論家・呉智英氏が連載中のエッセイ『ネットのバカ 現実のバカ』に、今週は「政治と音楽」にまつわる一文があった。先月のフジロックフェスティバルでシールズメンバーの出演をめぐって賛否の論争が沸き起こったのだが、氏は保守論客ではあるものの《音楽に政治を持ち込んで何が悪いのか、私にはわからない》と批判派を一蹴。ロシア革命にまつわるショスタコービッチの「革命」や朝鮮分断の悲劇を歌った「イムジン河」の例をひもといて、「政治的音楽」について思いを綴っている。 


 音楽に「良い政治」を持ち込もうが「悪い政治」を持ち込もうが、名曲は名曲だ、と主張する呉氏だが、戦後、日本共産党指導下の「歌声運動」で歌われた和製革命歌については、その出来栄えを手厳しく批判する。普段なら読み飛ばすこの手のエッセイに今週、なぜ目が留まったかと言えば、呉氏が《名曲とは思えない》と酷評した「がんばろう」「沖縄を返せ」など、半世紀前の運動歌をこのところ筆者は、毎日のように耳にするからだ。 


 そう、沖縄・高江地区の米軍ヘリパッド建設反対運動や、辺野古の座り込み抗議に取材に通う中で、私はこれらの運動歌をそのたびに聞くようになった。特段、目立った動きのない座り込みの“平時”には、飛び入りの運動参加者が三線を手に沖縄民謡を歌ったり、時にはプロのミュージシャンがギターの弾き語りを披露したりもするが、全員での運動歌合唱は、演説やシュプレヒコール同様、いわば集会の定番メニューのようになっている。 


 とくに沖縄での一曲、ということになればやはり、「沖縄を返せ」になるだろう。1950年代から70年代にかけ、本土復帰運動の中で歌われた曲だが、実はこの歌の作詞者は九州の人で沖縄県人ではない。沖縄を(日本に)返せ、というタイトルにも見てとれる通り、この歌の視点は本土からのものになっている。 


 このため、辺野古や高江では、その歌詞の一部《民族の怒りに燃ゆる島》という箇所を《県民の怒りに燃ゆる島》と変えて歌われる。元歌では「アメリカでなく、日本民族の島だ」というニュアンスに聞こえてしまうことから、怒りの主体を「沖縄県民」に明確化したわけだが、私はつい最近、県民の一部には「元の歌詞で歌うべきだ」という異論もあることを知った。 


 その主張によれば、怒りを感じるのはあくまでも「民族」、ただしそれは「ヤマト民族」でなく「琉球民族」という意味においてだという。些細にも思える違いだが、実はこの「(日本)民族」→「(沖縄)県民」→「(琉球)民族」という歌の中の自意識の変化こそ、最近の沖縄で起きている出来事の本質を示しているようにも、私には思える。 


 とは言っても、団塊の世代よりひと回り下の我々の世代には、「沖縄を返せ」のような運動歌が、古臭く聞こえることも、また事実だ。沖縄県民でも若い世代はきっとそうだろう。ただ穏やかな“平時”には、“退屈な懐メロ”でしかないこの手の音楽が、状況次第ではまるで違う聞こえ方をすることもある。 


 7月22日の未明、真っ暗な高江山中で聞いた歌声がそうだった。本土からの機動隊数百人の“来襲”が秒読みになる中で、高齢者や女性も多い百人ほどの沖縄の人々が乗用車で築いたバリケードの隙間に座り込み、腕を組んで身を固めながら何曲も運動歌を歌った。圧倒的な力で今まさに制圧されようとする“その時”を待ちながら、恐怖心を振り払うかのように声を上げる人々の歌声。私はその響きに、一種の荘厳ささえ感じたのだった。 


 その後、SNS等で事態を知った全国の人々が高江に集まるようになり、抵抗は今も継続しているが、22日の時点はまだ、抵抗者は9割がた沖縄の人だった。本土からの取材者、という中途半端な立場でそこにいた私は紛れもなく、歴史的に沖縄をそんな状況に追い込んだ側にいる本土人だった。暗闇の歌声には、はっきりとそれを自覚させる鋭さがあった。


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三山喬(みやまたかし) 1961 年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。1998年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取 材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。2007年に帰国後はテーマを 広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って」 (ともに東海教育研究所刊)など。