(1)昔から人気があった


 常陸国水戸藩第2代藩主、徳川光圀(1628〜1701)と呼ぶよりは、やっぱり、水戸黄門だろうな。「なぜ、黄門なのか?」それは、光圀の最高官位が、「中納言」で、この唐名が「黄門」なのである。


 なんたって、お殿様の人気ナンバーワンは、水戸黄門である。むろん、少し考える人ならば、この人気は、講談、映画、テレビが作り上げたフィクション(絵空事)がもたらしたものであろう推測する。そうは思っても、バカ殿様だらけの時代にあっては、それなりの「名君」だろうと信じている。


 実際、江戸時代の書物は、すべて光圀名君論ばかりである。いわく「古今の明君なり」「仁礼明哲の良将」「天下の至宝」「後世末代の模範とすべき人物」「治道を知りたまへる英雄と云うべし」というわけだ。


 書物を読むインテリ階級だけでなく、一般庶民の間でも圧倒的な人気があった。


 江戸時代後期、常陸国の百姓が西国巡礼の旅に出た。巡礼は大隅国(鹿児島県の東部)で道に迷い、民家のお婆さんに道を尋ねた。お婆さんは丁寧に道を教えてから、巡礼に出身地を聞いた。巡礼が「常陸国」と答えるが、そこがどこかわからない。「江戸より30里北」と説明しても、江戸すらも知らない。「御三家の水戸様の百姓」と言うと、「御三家が何なのか知らないが、水戸様というと、ひょっとしたら水戸黄門様のことか?」と言う。「そうです。水戸黄門様の御国がわしの出身地です」と答えると、「それはよい国にお住みで……、黄門様は神様か仏様のようにありがたいお殿様だったと、この国の人々もみんな申し上げています」と喜び、お茶をご馳走してくれた。


 こうした逸話が沢山あるわけで、インテリ階級にも一般庶民にも、水戸黄門は抜群の評価と人気を得ていた。


 しかし、人気と実像は違うのが常だ。


(2)バカ殿様か名君か


 水戸徳川家の祖は、徳川家康の第11子・徳川頼房(1603〜1661)である。御三家と言いながら、尾張徳川家は62万石、紀州徳川家56万石、水戸徳川家は35万石である。ずいぶんと格差があるが、原因は諸説あるものの、どうも、お坊ちゃま特有のわがまま、不作法、無節操がはなはだしく、父・家康のお気に入りではなかったようだ。


 それはともかくとして、頼房は長男・頼重(1622〜1695)、次男・光圀を生むのだが、2人の懐妊の知らせを喜ばず「水に流して捨ててしまえ」と堕胎を命じる。堕胎命令の理由は、長男・次男の誕生とは、2代目藩主の地位に直結する大事であることから、身分の低い女性(実力がない実家)からの誕生を排除するためだったと思われる。その詳細は、省略するが、2人とも秘密の出産・養育となった。


 長男・頼重は京都、次男・光圀は水戸で養育された。2代目藩主をめぐって「お家騒動」寸前になったが、あれやこれやで、世継ぎは次男・光圀に決まった。


 若き光圀は、ものすごい非行少年だった。当時流行の「かぶき者」ファッションが大好き、吉原遊びも大好き、ゲテモノ食い(よく言えばグルメ)で牛肉・豚肉・羊肉を好んで食べた。それだけならお坊ちゃまの放蕩ですむが、暴力性もあった。乞食を「試し切り」と称して斬り殺したり、町相撲に飛び入りして投げ飛ばされ、それに腹をたてて刀を抜いて相手に切りかかったりした。


 藩主になってからも、吉原遊びに明け暮れていて、その証拠に、光圀のお友達である鍋島元武(肥前小城藩主)への書簡が54通残っていて、その中に吉原遊びへの溺れっぷりが書かれてある。何と申しましょうか、志村けんの「バカ殿様」なのであります。


 蛇足ながら、鍋島元武は興味をそそる人物である。16歳の時、疱瘡にかかってあばた顔になってしまった。世継ぎなのに人前に出るのが恥ずかしくなり、出家・修行する。その修行が、いかなるものか知らないが、文学で一流、薙刀の名手になった。当然ながら仏道修行もし、僧侶となる。宗派は黄檗宗(禅宗の一派)である。父は、そんな元武を非常に愛し、結局は、元武は家督を受け継ぐ。5代将軍綱吉の信任が厚く、その反面、肥前小城藩(佐賀県)の領国では生類憐みの令が徹底され領民が苦しんだという。


 さて、光圀のあまりの「バカ殿様」に困った家臣は、おそれながらと諫言書を書いて反省を求めた。諫言書の効果があったかどうかはわからないが、光圀は18歳の時、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで非行を改めた、とされている。光圀の運命を変えた『史記』伯夷伝とは、何か。


(3)『史記』伯夷伝


『史記』は前漢(紀元前206年〜紀元後8年)の歴史家・司馬遷(紀元前145または135年〜87または86年)が書いた歴史書である。以下は要約です。


(前半)

天下・天子の位を伝えていくのは難事だ。

中国古代の殷の時代、伯夷と叔斉という2人の兄弟がいた。

父は三男の叔斉を後継者に定めたが、三男叔斉は長男伯夷をさしおいて後継者になることを心苦しく思った。父が死ぬと、三男は「長男が継ぐのが正しい」と辞退し、長男は「父が決めたことだから」と、これまた辞退する。

結局、2人とも後継者を辞退して国を去る。その国の人々は、次男を王にした。

伯夷と叔斉の二人は、孝を実践している国へ行った。ところが、その国王は死去しており、その子武王は、宗家である殷の王室に戦争を仕掛けていた。

2人は武王に諫言した。「あなたは父の埋葬も済んでいないのに戦争をしようとしている、これが孝と言えますか。臣下の身で君主を攻めようとしている、これが仁と言えますか」

武王の家臣は2人を斬ろうとした。だが、軍師の太公望呂尚が、「2人は義人だ」と言って、2人を連れ去った。

武王は殷を滅ぼし、周を打ち立てた。

2人は反逆の天下奪取を恥じて周の俸禄を拒否した。そして、2人は山の山菜を食べた。餓死寸前の時に歌を詠んだ。その一節の「暴を以って暴にかわり、その非を知らぬ」が有名。

そして、2人は餓死した。

伯夷と叔斉は、怨みを抱いていたのか、抱いていなかったのか。


(後半)

ある人は、「天道には差別はない。常に善人に味方する」という。(それが本当なら)伯夷と叔斉は善人なのか否か。2人は仁徳を積んで、行いが潔癖であったが、餓死してしまった。

孔子の高弟70人の中で、孔子はただ顔淵のみを学問を好む者として推挙した。その顔淵の米櫃はしばしば空で、糟(かす)・糠(ぬか)さえ十分に食べられず、ついに若くして死んでしまった。天が善人に味方して報いるというのなら、これはどうしたことか。

凶悪な賊の盗蹠(とうせき)は、毎日罪なき人を殺し、人間の肝を喰らい、狂暴で倫理に背き、わがままで短気だった。さらに、数千人の子分を従えて天下で悪事をふるまいながら横行したのに、盗蹠は天寿をまっとうした。これは一体、どんな善徳を積んだおかげだというのか。

これは顕著な事例だが、近頃でも素行が常軌を逸していて、専ら悪事ばかりしておきながら、死ぬまで安楽に過ごし、富が子孫の代まで絶えないという者がいる。

反対に、正しい行いをなし、正しい事を発言すべき時だけに発言し、常に大道を歩み、いつも謹厳実直な善人が、数えきれないほどの災難をこうむっている。

私は非常に思い惑っている。いわゆる天道は、是か非か。

私は富貴よりも聖賢の道に従う。

君子は生涯を終えた時に名声が得られないことを憂う。

賢人であっても、その名前は埋もれてしまう。そうならないためには、孔子のような聖人に付き従ったほうがよい。


 概略、以上のような内容である。

 青年徳川光圀は、『史記』伯夷伝に、どう感動したのだろうか。おそらく、(前半)のテーマである後継者問題であろう。伯夷(兄)・叔斉(弟)の状況と頼重(兄)・光圀(弟)の状況が、そっくりなので驚いたのだろう。父は弟を後継者に指名したが、長子相続制は歴然として存在している。光圀の非行の原因も、その矛盾が作用していたのかも知れない。解決策は、いろいろ考えられるであろう。兄が10年務め、その後は弟に。占い・じゃんけん。徳川宗家に判断を任せる。


 あれこれ思案の末、「足して2で割る」と「長子相続制」で解決した。つまり、すでに光圀(弟)が2代藩主に決まってしまっているため覆せないから、そのまま。しかし、3代藩主には頼重(兄)の子を迎える、ということにした。「長子相続制」から逸脱したので、元に戻す、それが「徳川の平和」を維持する根本である、と光圀は悟ったのだ。


 しかし、「天道は是か非か」は、そう簡単ではない。マイケル・サンデル教授のハーバート白熱教室で議論してもらいたいものだ。まぁとにかく、光圀は考えた。考えていたら、いつしか、光圀の脳細胞は、『大日本史』の編纂という大事業にたどり着いてしまった。これは、どえらい大事業で、完成したのが、なんと明治39年(1906年)であるから、実に260年の歳月が費やされた。


 光圀の功績としては、明の遺臣・朱舜水を招いて儒学(陽明学を取り入れた実学派)を奨励したこともあげられる。これと、『大日本史』編纂とが結合して、いわば総合大学のごとき「水戸学」が形成されていく。幕末には、大きな影響を有した。そんなことで、光圀は名君と称された。


 さて、光圀の非行のことであるが、『史記』伯夷伝を読んで真面目になりました、ということになってはいるが、どうかな……。ハチャメチャな非行はなくなったかも知れないが、吉原遊び、グルメ三昧は継続し、生類憐みの令なんぞ無視して肉を食べた。どうやら新刀の試し切りも実行していたようだ。


 記録がしっかりした事件としては、1694年に、小石川藩邸内で老中、大名、旗本を招いて能舞興行を行った。光圀自身も能装束で「千手」を舞った。舞った後、重臣の藤井紋太夫を刺し殺した。年齢を重ねても暴力性に変化はなかったのだ。


 人気というものは奇妙なものである。「悪い人」「ちょいワル」「真面目でいい人」と並べて、どのタイプがモテるかと言うと、「ちょいワル」が一番人気らしい。光圀は生存中から人気があったが、どうやら「ちょいワル」人気のような気がする。


(4)水戸藩は重税だった


 尾張藩、紀州藩の約半分の石高だけど、「御三家」の格式を維持するには出費がかさむ。


 水戸藩は、参勤交代がない代わりに江戸に常駐する定府制の大名であるため、二重生活の出費がかさむ。光圀殿様は隠居時代も含めて、お遊び・贅沢が大好き。さらに、『大日本史』編纂では全国各地へ資料収集のため人員を派遣せねばならず莫大な経常経費が支出される。当然、財政は大ピンチ。となると、大増税である。


 年貢は、全国的には約50%の税率であるが、光圀は64%へ引き上げた。年貢以外の恒常的な税金、労力奉仕もあり、百姓の負担は限界点を突破する。百姓一揆である。光圀生存中では、3回の百姓一揆(愁訴1回、強訴2回)が発生している。光圀生存中に限らず、水戸藩は百姓一揆に対して強硬姿勢をのぞみ、多くの名主らが死罪になった。


 重税政策は人口減少をもたらす。水戸藩の人口は17世紀は約30万人いたが、19世紀初頭には22万人に激減している。


 光圀が死亡した年には、富農や領内の町人に御用金を徴収し、以後は毎年のように徴収した。


 水戸学では「愛民」「敬天愛人」の思想が尊ばれ、吉田松陰や西郷隆盛に感化を与えたが、水戸藩領内の百姓は悲惨だった。


 なお現代では、水戸黄門は水戸市の貴重な観光資源となっている。 


(5)水戸黄門漫遊記


 1802年、十返舎一九の『東海道膝栗毛』が大ヒットした。同じ頃、呑参道人が『義公仁徳録』を書いた。隠居の光圀が諸国の神社仏閣を旅し、人々を助けたという内容である。この2冊をまねて、講釈師の桃林亭東宝が『水戸黄門記』を書いた。「天下の副将軍」である水戸黄門は俳人をお供にして奥州を漫遊して世直しをするというもの。これは大ヒットした。この原稿の最初に取り上げた大隅国のお婆さんは、この本の影響かも知れない。


 大ヒット作品が誕生すると、それをアレンジしたものが出る。昔、何かで読んだのだが、スケベなコウモン様がマン遊するというのもあったようだ。


 明治になって、大阪の講釈師の玉田玉知がお供を助さん格さんにする話にした。多くの講釈師が水戸黄門漫遊記を発展させ、多くの映画になった。テレビドラマでは高視聴率を得た。そんな過程で、豪農の爺様から商人の爺様に変化したり、印籠が登場するようになった。


 なお、テレビドラマをアメリカへ持ち込んだが、権威的過ぎて、まったく不人気だった。


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。