前回は診療報酬改定、特に7対1病院の在宅復帰に関するプレッシャーの大きさが、在宅、それも「自宅」を念頭においた患者の病院からの「追い出し」的な行動を拡大させ、結局は、「自宅」「家」を姥捨て山化していくのではないかという問題提起を行った。むろん、こうした論法は性急な論議であり、財政規律からみれば、わが国の経済状況からみて当然の成り行きだという反論も理解できる。
本稿は、少し性急な議論を喚起し、将来の日本の死生観の変化に与える影響を危惧することを目的にしている。しかし、こうした状況は、専門的な解釈ではない。新聞の投稿論には、「後期高齢者」という呼称が、「社会に必要のない年齢層」という認識を持った言葉だという一般人の指摘が掲載されるようになった。類似した指摘、あるいは「イヤな思い」を伝える一般の、特に高齢者の叫びに似た声となって大きくなっているようにみえる。
07年に公開されたマイケル・ムーアのドキュメンタリー映画「シッコ」では、行くあてのない老女がパジャマのまま、病院から放り出されるシーンがあったが、その真偽は別として、16年診療報酬改定は、そうしたシーンを象徴的に思い起こす制度改革である。むろん、現代の日本であれとそっくりのシーンが出現するわけではない。しかし、「ときどき入院、ほぼ自宅」というスローガンの中では、それと似たような無理が生まれることはそれほど遠くないのではないかと考えておくことは大事だ。
前回触れたように、病院と患者サイドのギャップは種々の部分で拡大する。家賃を払っていない、電気も水道も止まっている「自宅」の患者。家族が受け入れを拒否する「家」、そうした課題を解決できなければ、病院は経営上の観点から患者を路上に放り出すか、医療的「状態」をかなり早い段階から、「終末期」と判断する気分を醸成するかもしれないのだ。
自由経済下での米国では、メディケアなどを除くと医療保険も民間だが、08年頃から高騰する保険料を支払えない被保険者、医療費のかかる被保険者を保険加入から締め出す動きが加速した。映像的には路上に放り出された患者のイメージと重なるが、この頃、こうした保険会社の動きを米国医師会は「パージング」と呼んで厳しく批判したことがある。
パージングとは「浄化」などという意味があるらしいが、16年診療報酬改定は、ある意味、パージングにつながる危険はないのだろうか。
●時代の振幅に影響される「認定」
「ときど入院、ほぼ在宅」は、大変やさしく理想的な高齢者のケアの姿を垣間見せる不思議な言葉だ。これに沿って、日々努力を重ねる医療関係者、介護担当者の苦労は、現状では大変なものだという認識を、筆者も持っていることはここで表明しておきたい。このスローガンの実現には、退院時の入念な準備、前回にも触れたように入院時からの退院指導、環境づくりが必要なことは言うまでもなく、そのために多くの関係者が心を砕いている。退院時には、病院関係者、在宅サービス機関などが集まってカンファレンスを行うことも日常的に行われている。
しかし、そうした多くの人々が動員され、カンファレンスまでも行うコストは、また次の矛盾を生み出していくことは想像に難くない。新たな制度やスローガンは、また新たなコストを生み出す。そしてそのコストをどう付け回していくかが、財政規律なのかもしれない。結局は自助の言葉を使って、個人の負担の拡大、それに対応できない人たちへの「看取り」への早期な準備を誘導するのではないかとの懸念を生み出すのだ。
介護保険制度は介護を受ける人々の「生活」の面倒まで見る制度である。しかし、介護保険制度の利用率は現在、2割程度にとどまる。要するに、支援を受けるためには、一定の介護認定を受ける必要がある。「認定」には、その時代、環境、財政を反映して、振幅を生み出す。高齢者が少なかった時代には受けられた、利用できた介護保険システム、サービスが、財政状況、介護労働者不足、そうした状況を反映して振幅する。振れ幅が小さくなっていく間に、そのサービスから除外される人々が増加する。そして、そこを埋めていくのが、「健康寿命」という都合のいいキーワードであり、健康寿命を保つための「自助」であり、さらに高齢者は「早く退場」を促す、死生観の変化を促す社会思潮だ。
第2次大戦では、メディアまで含めて、日本は人々の心を戦争邁進へ盲信させた。日本の「心の持ち方」は、戦争法制への危惧だけではない。平均寿命の世界的な高水準を喜ばなくなったメディアの「関心の転換」は、おそらく「健康寿命」期間への関心を生み、胃ろうや経管栄養への関心を生み、「必要か不必要か」の関心へ移行し、「無意味な医療」の拡大解釈を促し、「無意味な生」への人々の関心を促す思潮へとつながる。勢いがつけば、「天寿を全うする」ことは、お金を(公費を)使わないで死ぬことだという、「常識」を作り出すことになるだろう。
その意味で、安倍政権が消費税率10%の先送りを決めたことを、メディアの多くが支持したことは、景気が優先される「認識」を是認したことであり、経済問題がこの国の課題であり、課題が増幅する要因は団塊世代が後期高齢者となる時代への危機感である。
●議論すべきは社会保障費だけか
最近の世相を示す特徴として「子どもの貧困」がある。メディアはこうしたこどもの貧困に敏感だ。異常な感度にも見える。ブラックアルバイトなど、若者を収奪する労働構造などへの関心も高まっている。こうした問題提起は、むろん重要なことで、その要因が景気にあり、金が社会に回らず、一部の富裕層や法人が貯め込む一方で、個人消費が伸びないという構造性にあることは明確だ。そのことを社会的問題として提起する中で、その構造を維持する根源的な問題が、将来の超高齢化社会への不安にあることはまだ十分に語られているとはいえない。
重要なのは、超高齢化社会時代に景気浮揚を促す具体的なメニューの提案のはずだが、現状では何もインパクトのあるプランはプレゼンテーションされていない。そのため基本的には、超高齢化社会で起こり得る社会保障費の増大をいかに抑制するかということだけが論議の対象となり、「天寿」の考え方の革命的な変革が要請されるという状況を作り出している。
医療は進んだ。昔とは違う。90歳を超える高齢者が心臓バイパス手術を受ける時代だ。姥捨て山伝説の根幹にある思想は「口減らし」だが、現在も超高齢化社会となるこれからも食べるものがないわけではない。進んだ医療のために、自分で食べることができなくなった人々の「口減らし」という観念の転換がいつの間にか行われている。経済的に食べることはできるが、自力で身体能力として「食べられない」人の口は減らしていくという、新たな姥捨て山論が主流になり始めている。
終末期医療が新たな段階を迎えているのは、こうした思潮の転換が大きな影響を与えている。次回から、こうした思潮のいくつかを摘みあげてみよう。(幸)