週刊文春の短信の記事だが、元自民党幹事長・加藤紘一氏の訃報に《二十一世紀の政治潮流を作った男・加藤紘一逝く》という絶妙なタイトルが付されていて、思わず引き込まれてしまった。保守リベラルの名門派閥・宏池会(現岸田派)のプリンスとして90年代後半、「総理の座に一番近い男」と目され、小泉純一郎、山崎拓の両人とともに「YKKトリオ」と脚光を浴びながら、森喜朗首相に反旗を翻すクーデター「加藤の乱」に失敗し、権力の頂点には立つことなく終わった。
《加藤氏の“墜落”は、自民党リベラルの敗北でもあった。保守本流の小渕派、加藤派に劣後していた「清和会」が(それ以降)全盛を迎える。「加藤の乱」がなければ、小泉政権はなく、安倍晋三氏が戦後最年少で総理に就任することもなかった》
週刊新潮は3ページの特集で、加藤氏の歩みを振り返っている。タイトルは《反乱と脱税で冷や飯の晩年 総理の椅子は目前だった「加藤紘一」陽の当たらぬ15年》。この記事では、加藤氏の失速について、「加藤の乱」とともにもうひとつ、東京地検特捜部による脱税の摘発と引責議員辞職(翌年の総選挙で復活)が致命傷になったことも指摘している。
この記事によれば、加藤氏はもともと、地元にカネを求めず、利益誘導もしないタイプだったのに、94年以後、事務所を取り仕切るようになった大物秘書が「その真逆」の手法で政治資金を集めるようになり、02年の事件発覚へとつながった、というのである。
また新潮の解説では、小渕首相には加藤氏に首相の座を禅譲する腹があったのに、99年の総裁選に加藤氏が名乗りを上げ、小渕氏と闘うことになったため、その話は消えてしまったという。「加藤の乱」の際、その阻止に動いた野中広務元幹事長は、小渕氏の禅譲を待てなかったのが加藤氏の致命傷となったとし、元民主党の仙谷由人は「乱」を決行できなかった「ためらい」が、ターニングポイントだったという。
まさに魑魅魍魎が跋扈する暗闘に敗れ、消えていったプリンスだが、政界引退の数年前、第1次安倍政権の誕生後は、日本会議メンバーが集結する政権に危機感を抱き、「(右傾化が)限界線を越えた時には動き出す」とも漏らしていた。だが結局、時代はもう、晩年の加藤氏に活躍の場を与えはしなかった。「たられば」で過去を振り返っても仕方のないことだが、権力を目前にした加藤氏のつまずきは、近年の政治史の象徴的なポイントだったかもしれない。その意味で《二十一世紀の政治潮流を作った男》という文春のタイトルに、秀逸さを感じるのである。
このところメディアの関心をさらっている小池百合子・新東京都知事にまつわる報道では、文春・新潮とも巻頭の特集を組んでいる。文春のタイトルは《小池vs.豊洲利権 豊洲「盛り土なし」疑惑の都幹部は二代目ドンの盟友》、片や新潮は《都知事「小池百合子」金庫番が手を染めた特権的錬金術》。文春が新都知事とともに都議会自民党の闇に斬り込もうとしているのに対し、新潮はその“逆張り”で、知事自身の金銭スキャンダルに焦点を合わせている。
現状では両誌ともそれぞれに“怪しげな話”を報じるにとどまり、決定的スキャンダルを暴くには至っていないのだが、次週以降、どちらかが調査報道的スクープをあげれば、事と次第では、都政そのものの流れを変えることにもなりかねない。何年か後に「時代の潮目だった」とわかるターニングポイントは、同時代的には気づかないような所に、しばしば潜んでいるものである。
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三山喬(みやまたかし) 1961 年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。1998年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取 材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。2007年に帰国後はテーマを 広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って」 (ともに東海教育研究所刊)など。